【国会議員の目】衆議院議員 日本共産党  赤嶺 政賢氏

アフガニスタンで聞いた平和憲法への評価
米国の軍事戦略に資する開発協力大綱には懸念

沖縄の本土復帰から51年が過ぎた。東アジア情勢がきな臭くなる中、沖縄の人々はこの半世紀をどう振り返り、今後をどう展望しているのか。紛争地などを訪問し、現地調査をしてきた衆議院議員の赤嶺政賢氏に日本の援助政策も含めて意見を聞いた。

衆議院議員 日本共産党 赤嶺 政賢氏

1947年、現在の沖縄県那覇市に生まれ、東京教育大学(現在の筑波大学の前身)に在学中、日本共産党に入党。高校教師、同党専従職員、那覇市議会議員を経て、2000年に衆議院議員(比例代表九州・沖縄ブロック)初当選。2014年に沖縄1区から衆議院議員当選。島しょ議連、ドクターヘリ推進議連、海洋自然エネルギー促進議連などで活動。

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「命どう宝(命こそ宝)」
 私は戦後2年経った1947 年に沖縄で生まれ、義姉が歌う「ひめゆりの唄」を聞いて育った。戦争体験者に囲まれて育ち、家族を失った感情や苦しみをひしひしと伝え聞いてきた。 親の畑仕事を手伝うようになると、散乱した遺骨の断片を畑の四隅に積み上げるのが私の仕事だった。海辺には、艦砲射撃の大きな穴が残っていた。
 戦争で多くの文化も失われ、当時の人たちは、空き缶と落下傘のひもで三味線を作って弾いていた。 進学先の東京では、緑が多いのに驚いた。戦争直後の沖縄ではすべてが焼き尽くされ、緑がないのが当たり前だったからだが、そんな私の話を聞いた友人はキョトンとした顔をしていた。
 沖縄の人々が自分の戦争体験を世の中で語りだしたのは、戦争が終わって随分時間がたってからのことだった。私は1985 年から那覇市議会議員を務めはじめたが、当時の忘れられない記憶がある。戦争体験者の証言を伝えるテレビの番組に、私の中学時代の恩師が出演していた。彼女は、ひめゆり学隊の生き残りだったのだ。多くの同級生が犠牲になる中、自分だけ生き残ったことの苦しさを背負っていたのか、私たち生徒に話すことはなかった。 戦争は、人間の生活すべてを破壊する。私は沖縄のお年寄りから、「命どう宝(命こそ宝)」と聞かされてきた。艦砲射撃を受けた人に聞くと、隣を歩いていた人が突然、消し飛んでいなくなってしまったという。戦争で犠牲になった人々の遺骨は、あちこちにあった。沖縄が復興する中で、私は育ったが、キャンプなどに楽しく出かけた思い出はずっとなかった。 小学校の学校給食では、米国の資金援助で提供された脱脂粉乳を飲まされたが、ガラスのコップなどなかった。コカコーラのガラスびんを家で切って、コップ代わりにした。いまも保管し、議員会館を訪問した人に見せることがある。
 私は大学を卒業後、石垣島に高校教師として赴任した。石垣島は文化の香り高いところだが、マラリアで家族を失った人が多かった。戦争当時、日本軍に山間部への避難を命じられたからだった。
 1972 年5月15 日、沖縄の施政権が米国から日本に返還された。本土復帰後の新しい沖縄をどうやってつくっていくのか。干ばつや台風などで、日々の生活や子どもの教育費に苦しむ離島の人々を目のあたりにしていた私は、教鞭を置く決断をした。
 それまでの米国施政下では認められていなかった日本共産党も、復帰後は活動が認められるようになった。私は、党の専従職員としての道を歩むことにした。

=コカコーラのガラスびんで作ったコップを手にする赤嶺氏。戦後、沖縄の小学校で脱脂粉乳を飲むのに使った

 

破壊の中から生まれた憲法9条
 今、日本を取り巻く国際情勢の中、敵基地攻撃能力が必要だとか、勇ましい話を聞く。その度に、私は「戦争を知らない人々だな」と思う。
 国会では、「憲法9条では国を守れない。お花畑の安保論だ」といった意見も聞く。だが、憲法9条は決してお花畑から生まれたわけではない。沖縄の地上戦や広島・長崎への原爆投下、全国の空襲による破壊の中から、日本が国策を誤ったことを反省して生まれて来たものだ。 私は2001 年9月11 日の米国同時多発テロ直後の10 月に、党の調査団の一員としてパキスタンを訪問し、現地調査をした。さらに2003 年夏、衆議院のイラク・テロ特別委員会で、ヨルダン、イラク、アラブ首長国連邦、アフガニスタンを調査した。
 この時、アフガニスタンのカブール大学の学生らとの対話で聞いた言葉が忘れられない。日本はタリバーンと戦う米国に加担し、インド洋で米軍艦船への給油支援をした。だが、学生からは「憲法9条を持って経済を発展させた平和国家・日本がうらやましい」と言われた。 日本はかつての侵略戦争と植民地支配への反省から、憲法で二度と戦争しないことを誓い、アジア諸国の復興に関わってきた。政府開発援助(ODA)は平和憲法の誓いと一体のものだったはずだ。ところが今年、改定された開発協力大綱は、米国の国家戦略に同調し、それに沿って資金を出していくようなものになっている。大綱が、本来のODA の考え方とは違って、米国の軍事ブロックに資するものになってきたことを強く懸念している。「同志国」の軍隊の能力強化を支援する「政府安全保障能力強化支援」(OSA)まで創設した。
 最近では、日本の国益につながることを計算してカネを出す時代になっている。だが、インフラ建設より、貧困や教育など人づくりにつながる支援を重点にするべきだ。
 NGO のペシャワール会と亡くなられた中村哲医師は、アフガニスタンの地元住民から強い信頼を寄せられてきた。日本は、戦争や軍と無縁のNGO を支援し、紛争を助長しない民生中心の復興支援と人道援助をすることが重要だ。
 アフガニスタンを例に見ても、大切な役割をしている国連との協力も重視していくべきだ。国連には日本人もかなり多く働いている。
 ウクライナについては、軍事侵攻したロシアが撤退すべきなのは当然だが、どう実現していくのか。西側の軍事支援で本当に解決するのだろうか。国連を中心にした国際世論の力で解決するしかない。日本は世界の平和秩序を守る貢献をする必要がある。

=日本共産党の調査団の一員としてパキスタンを訪問した赤嶺氏。2001年10月、赤嶺氏提供

 

沖縄県に「地域外交室」
 東アジアでは台湾有事をめぐってきな臭い雰囲気があるが、軍事力で解決しようという発想にはついていけない。沖縄県は今年、玉城デニー知事の発案で県庁に「地域外交室」を設けた。沖縄は、いにしえの琉球王国時代には日本、中国、東南アジアなどとつながり、独自の国際ネットワークを構築し、発展してきた。多様な国に留学生を派遣した歴史もある。中国の福州には琉球人の墓もあり、玉城知事も訪中時に墓を訪れ、弔った。
 沖縄県は中国、香港、台湾などにある事務所を拠点に、平和のための地域外交を進めている。私たちも連携していきたいと考えている。

 

本記事は『月刊 国際開発ジャーナル2023年10月号』に掲載されています。