国際開発ジャーナル社 International Development Journal

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2011.04.13

Vol.8 感謝の気持ちを伝えたい~エジプトから「頑張れ!ニッポン」

感謝の気持ちを伝えたい~エジプトから「頑張れ!ニッポン」

2011年3月11日、東日本を中心とする震災が我が国を襲いました。“頑張れニッポン!”エジプトで「南南協力」に携わっていた松見靖子さんが、エジプトからの「エール」を伝えてくれました。

日本とエtahrir.jpgジプトの試練
2011年2月11日、エジプトは3週間に及んだ民主化運動の末、平和的な手段による長期独裁政権打倒に成功しました。革命の中心となったタハリール広場(自由の広場)を掃除する若者たちの姿は、世界中に大きな感動を与えたことだと思います。その歴史的瞬間に立ち会うことができた興奮も冷めぬ中、一ヶ月後には日本が未曽有の大災害に襲われてしまいました。
タハリール広場では、今でも金曜日ごとに集会やデモが続いています。長く独裁政治しか知らなかった人たちが、新たな国家建設に挑むということは、大変、困難な、長い道のりになるでしょう。そんなタハリールの群衆の中に、ひとり、日本の国旗を掲げる若者がいました。
「日本もエジプトも、今、大きな試練の時に立たされているんだ。だから一緒に頑張ろうという気持ちを伝えたかった。」

 

3月末、私は3年間住んだエジプトを離れました。エジプトでは「南南協力」と呼ばれる事業 -日本とエジプトが協力して他の開発途上国の人材育成を支援する「第三国研修」を担当していました。その事業のパートナーとして、一人の熱心なエジプト人教育者に出会いました。
現在、国立ファイユーム大学の学長として活躍するアハマド・エル=ゴハリ博士は、かつて日本で研修を受けた経験があります。その時、世界トップレベルの技術を持っているにもかかわらず、傲ることなく謙虚で勤勉な日本人の姿勢に大変感銘を受けたそうです。以来、日本の良き理解者として、エジプトだけではなく、広くアフリカや中東諸国の若い研究者の育成のため、第三国研修を通じて日本とともに国際協力事業を支援してきました。
今、エジプトも苦しい中で、長年にわたって支援を続けてくれた日本人の友情と恩に少しでも報いることはできないだろうか・・・。 ゴハリ学長をはじめとして、日本で学び、日本人をよく知っている人々が、遠いエジプトからメッセージを贈ってくれました。

エジプトからのメッセージ

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スエズ運河大学、およびファイユーム大学の学生、私の家族、そして私自身のために、今、何か日本の人々ためにできることはないか、ずっと考え続けています。日本が大きな危機に直面しているときに、私たちにできることはわずかです。私が初めて日本を訪れて以来20年にわたって、日本の人々が示してくれた温かい友情と寛大な支援の恩に報いることはできません。私たちは、言葉に尽くせないほど、日本という国を尊敬し、感謝をしています。エジプト人だけではありません。日本から遠いアラブの国々で、たくさんの人々が日本のために祈っています。

アハマド・エル=ゴハリ博士 ファイユーム大学学長

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mohamed-tawfic-photo.jpg日本を襲った恐ろしい大地震のニュースに、誰もがショックを受け、心を痛めました。しかし、日本は必ず、もっと強くなって立ち直ると信じています。困難に出会うたびに、日本がそれに打ち勝ち、見事に復興してきたことは、歴史の事実です。この未曽有の悲劇でさえ、日本人の勇気と決意を、世界に示す「日本神話」として、後世に語り継がれていく日がくるでしょう。その日まで、世界中の何千何百万人もの人々が、日本がこれまで世界のために貢献してきたことへの感謝の気持ちを忘れずに、日本という特別な国のために祈っています。困難の時にも自制心と道徳を忘れない日本人の美徳は、人間社会のあるべき姿のひとつの範であり、世界はそんな日本を必要としているのです。

ムハマド・タウィーク・アハマド博士 スエズ運河大学医学部教授

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私たち家族は、日本に5年間住んでいました。たくさんの友人にも恵まれ、日本での思い出は、私たちの心の財産になっています。日本は私たちの第二の故郷で、日本人は第二の家族ともいえます。日本人は礼儀正しく、勤勉で忍耐強い国民です。今日の日本の発展は、そんな日本人の一人ひとりに支えられているのだと思います。私は、強い使命感を持った日本の人々が、この危機を乗り越え、より一層強くなって復興することを信じています。
日本を襲った大災害のニュースを聞いたとき、私の幼い娘は日本の友だちのことを心配して泣きじゃくりました。私たち家族全員、日本の人々には、どんなに感謝してもしつくせません。一日も早く、この危機を乗り越え、再び「日出づる国」にふさわしい勇姿を見せてくれることを祈っています。

オマル・ファティヒ・デスーキ博士 スエズ運河大学 医学部助教

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第二次世界大戦と原爆投下の悲劇の後、あっという間に復興し、世界の頂点に立って私たちを驚かせた「日本の奇跡」は、私にとっては大きな謎でした。しかし、初めて日本を訪れ、実際に日本の人々と接したことで、すぐにその理由が分かりました。日本人は、とても忍耐強く、賢明で、頼りになる人々です。日本の成功の秘密は、そんな日本人一人ひとりにあります。それはどんな破壊行為よりも、強靭なのです。私たちが、今、日本のためにできることは無に等しいかもしれません。それでも、これまでに日本が私たちに手をさしのべてくれた恩に少しでも報いたいと思っています。
ムハマド・マンスール・アッバス・イード医師 熊本大学大学院医学教育部

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スエズ運河大学で血液学の助教をしているアブダラ・ハシーシュです。今年1月から3月23日まで、文部科学省の学術交流事業で、熊本大学の医学部で研修を受けていました。わずか3ヵ月の滞在でしたが、日本でたくさんの友人にも恵まれ、忘れられない思い出ができました。
震災が日本を襲ったとき、私は熊本にいて、毎日ニュースを見ていました。エジプトに帰って友人から日本のことを聞かれたとき、私は「日本人を信じている」と答えました。「日本がこの災害を乗り越えることを、100%確信している」と。
どうか、この危機を一日も早く乗り越えて、日本の強さを私のエジプトの友人達、そして世界に証明してくれることを願っています。

アブドラ・ハシーシュ医師 スエズ運河大学医学部助教

2010.03.24

Vol.7 ジョン・ウッド氏と渋谷でチャリティーイベント開催

米国の非営利団体「Room to Read」の公認大学生チーム「U-Lead」のメンバーの一人、 日本女子大学4年の渡辺ともみさんのレポートです。

61万円の資金を収集
「The First Step~ネパールの子どもたちに図書室を!」と題するイベントを2009年11月30日に渋谷で開催しました。主催は開発途上国の教育支援を展開する米国の非営利団体「Room to Read」の理念や活動に共感を抱く大学生17人が立ち上げた「U-Lead」。イベントでは、ネパールの現状紹介に始まり、アーティストによるライブやトークショー、「Room to Read」の創設者ジョン・ウッド氏もスピーチを行い、抽せん会では400枚近くの抽選券を販売しました。
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当日は217人の来場者が参加して会場は大いに盛り上がり、61万2,000円の資金が集まりました。この収益の一部はRoom to Readに寄付され、同団体のマッチング・グラントというシステムを通じて、ネパールで2カ所の図書室と7人分の女子奨学金(1年間分)として活用されます。

きっかけは1冊の本
私がこの活動に参加したのは、社会起業家、ジョン・ウッド氏の『マイクロソフトでは出会えなかった天職』を読んで感銘を受け、Room to Readに連絡したのがきっかけです。同団体の活動先の一つであるネパールを訪れ、雄大な自然と人々の温かさに触れました。そして帰国後、Room to Read東京チャプターの学生チーム結成に誘われ、U-Leadのメンバーになりました。

U-Leadは、「Raising Awareness」をスローガンに、途上国の子どもたちの現状を日本の学生に伝え、学生の社会貢献に対する意識向上を目指しています。他の先進国に比べてチャリティー文化の根付いていない日本の現状を踏まえ、途上国の子どもたちに教育の機会を与え貧困から救うだけでなく、一人でも多くの学生に社会貢献活動を身近に感じてほしい、と活動しています。

今回のイベント開催に当たっては、学生が楽しみながら社会貢献に関われるようにと、エンターテインメント性の高い内容を企画。出演アーティストや協賛企業を探すなど日夜準備に奔走しました。そうした中、心強かったのは共感してくれるアーティストや企業の方々の協力です。社会も今、私たちのような活動を受け入れ支援してくれる環境にあると感じました。

学生ならではの社会貢献
1冊の本に始まり、実際に行動を起こした結果、私たちのイベントに本の著者であるジョン・ウッド氏が来てくれ、図書室を建てる資金が集まるという大きなことを成し遂げることができました。

これを機に学生からの問い合わせが増え、今後はより多くのメンバーとともに活動を拡大する予定です。Room to Readが実施するプログラムへの寄付と啓発活動を目的に、年3回の頻度でチャリティーイベントを開催するほか、小学生から高校生までの日本の子どもたちが社会貢献活動に参加できるような協働型のプロジェクトを考案・実施していきます。

将来は学生支部を全国に広げてネットワークを広げ、日本の大学生に影響を与える存在でありたいです。今後も新しいことにチャレンジしていきたいと思います。
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2009.05.19

Vol.6 インドで自分を見つめなおした3ヶ月間

イギリスに本部があるプロジェクトアブロードを通じてインドでボランティアを経験した
上木香奈さんからのレポートです。

前々から国際協力に興味があり、ビッグスケールで世界を跨ぐ仕事がしたいと思っていた私はいままでのキャリアにストップをかけ、インドへ3か月の旅に出ました。

いままでやりたかった事でまだ実現していないことをリストアップし、分析したところ、「書く仕事がしたい」「途上国でボランティアする経験が欲しい」という結論になりました。子供のころになりたかったのは小説家。でも文章能力や才能もないし、ライターとして食べていけるかも不安、などと色々と口実を見つけてはチャレンジせずに毎年同じことを書いている自分に気がついたのです。ただ、経験もないのにお金をもらってやるのは到底無理な話しだろうと思った私はグーグルで「書く仕事」「海外」「ボランティア」などのキーワードをもとにグーグル検索しました。そこで出会ったのがプロジェクトアブロードのジャーナリズムプロジェクトでした。このプログラムは本当に最適で、夢のようなものでした。派遣先の雑誌社がプロジェクトアブロードスポンサーであるため、わたしのような未経験でも参加できますし、写真、取材、記事作成、編集、デザインから出版までの一連の流れに携わることができます。またライターという職業上、南インドを旅するように見ることができましたので。

活動先は南インドのシバカシという産業街でした。空港から車で30分くらいの町ではと勝手ながら想像していた私はその頃まだインドの大陸の広大さに気がついていませんでした。到着時、シバカシがそこからさらに車で6時間の場所と聞き、それまでにも日本から12時間近くかけてきた私は失神しそうになりました。

ジャーナリズムのプロジェクトでは、世界各地から来た方が大勢いました。ドイツ、イタリア、フランス、英国、オランダにドーハまで!それぞれレベルの違う仲間でも、願望は同じだったため意気投合しました。みなさんインドのような発展途上国は初めてだったので条件は一緒です。助け合いながら楽しくジャーナリズムのプロジェクトを進めました。南インドは道がでこぼこで整備されていないのでバスに乗るだけでもジェットコースター気分です。また国が違えばルールも違うので日本であれば明らかに違反となるようなリクソーカー(三輪自動車)に8人乗りというのもしょっちゅうでした。そのような交通手段を使い、人里離れたビレッジに住む職人を取材しに行ったりしました。おかげで宗教や歴史や伝統をじっくり学べるいい機会が持てました。

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一番印象に残ったのはお見合い結婚の二人を取材し、その後彼らの結婚式に招待されたことです。実はこの記事のアイディアを出したのも私。インドでは結婚の8割を占めるお見合い結婚というのに非常に興味を持ち、取材して日本の事情とかと比べたら面白いかなーと思ったのでした。だってインドではまず到着して一番聞かれる質問が「結婚しているの?」「なんでしないの。」とかなんですよー!失礼ねと憤慨していても仕方ありません。リクソーカーの運転手さんも店の店員も道沿いにあるチャイ屋の店員だって、それに現地スタッフも平気で聞きますから。まぁそれだけインド人にとって結婚は一大事なのです。

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それ以外の活動としては月に一度、大学や学校に赴き学生との交流会の機会がありました。食糧難についてのレクチャーを行ったり、それぞれ来た国の紹介をしたりしました。また我々のシバカシタイムズ(プロジェクトアブロードの雑誌の名前です)を題材に彼らに色々と情報発信することもできました。世界について、世界の問題について、自国と他国との違いや経済、食料危機などタイムリーな問題についてお互いにどう思うのか意見貢献したり。食糧危機については参りました。イタリア人の同僚が食糧危機問題の解決策について「肉の消費量を減らす」という発言をしたときです。するとある学生はこう言いました。「それは先進国が気をつけるべきことだろう。宗教的にも牛を食べない僕たちには当てはまらない。ましてや国民の大半が1ドル以下の生活をしているのに肉などの贅沢品を口にするわけがない。」と。これは一本やられたと少し赤くなっていました。こういう議論を通じて日頃当たり前で気がつかない面に目を向けられるようになったように思います。そしてまた、日本の良さも悪さも実感し、他国との様々な違いを基に色々と頭をつかって考える癖もできました。

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滞在先はプロジェクトアブロードと提携しているホストファミリー宅でした。私が滞在したのはサウンダラージュ一家。とてもハートが温かく笑顔の優しい家族でした。1か月過ぎた頃、食欲旺盛な私が食べられない日々が数日続きました。やはり丁度慣れてきた頃でまた7月というさらに暑い季節で(平均気温38度くらい?)体がばてたのが原因でした。それから毎日食べていたインド料理に飽きたというのもありますが。「やせちゃって・・・本当のお母さんが心配するね」とホストママが心配し、わたしの好きなお菓子とチャイを持ってきてくれたり、スープやお湯だけ持ってきてくれたり。本当の家族並みに親切な家でした。夜少しでも遅いとお父さんが玄関のところで座って待ってくれるし・・・笑顔でおかえりと迎えてくれたときには涙が出るくらい嬉しかったです、小さい頃に戻ったみたいに。

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部屋は3つあり、わたしの部屋にルームメイトがいるときもあればいないときもあり。みんなだいたい1か月単位で来る方が多いので、そのうち「新しくきた方を迎えて出るときに見送る」第2ホストママみたいになっている自分がいました!

夜や週末は他のボランティアの方と常に一緒だったので淋しくありませんでした。本を読んで論評しあったり、世界から集まる色々な方たちと互いの国の違いについて話したり。週末は本当にあちらこちらに行きました。タミルナードゥ州の北の方のチェンナイ・オーラルヴィル(旧フランス領)を訪れてフランスインド文化を楽しんだり、テケティ山頂付近で象に乗ってスパイスガーデンでスパイスを堪能したり(シナモンってまるかじりできるんですね!)、ボートに乗ってのんびりとした時間を過ごしました。ビーチにもよく行きました。シバカシは内陸地にあるのでどこに行くにもバスで長時間ドライブです。帰国する頃には8時間のバスと聞けば意外と早いわねと少し感覚がずれていたほどです。

日本に帰ってきてもサプライズの連続でした。ホストファミリーから長女の結婚式の招待状が届き、最後に書いた記事が載っている雑誌が送られてきたり。当分心はインドに置いたままにしようかなと思います。

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インドでの長期に渡る旅で学んだことは一言では表せませんが、生きる活力をもらい、何かを成し遂げる勇気や大切さに気づき、他国への理解は自国への理解にもつながるということが分かったことでしょうか。豊かな経験は豊かな心を育てると思います。単一民族国家として鎖国的になりがちな日本に比べて対照的に、様々な宗教や人種、言葉が混ざり、古いものと新しいものが混在している不思議な大陸インドでの経験は多くを学べます。心を洗い直したい時はすべてを飲み込んでくれるこの広大な土地でひと時を過ごすのも良いのではないでしょうか。

Vol.5 モザンビークで見た笑顔とラテン的オプティミズム

モザンビークの日本大使館に勤務していた中澤香世さんが、
現地での仕事、生活、経験などをレポート!

なぜモザンビークにかかわることになったのか
モザンビークはアフリカ大陸の南部アフリカに位置し、ポルトガルを宗主国とする旧ポルトガル植民地である。「なぜモザンビークなの?」と思われるかもしれないが、それは私の個人的バックグラウンドに関係している。上智大学では、ポルトガル語圏地域研究とポルトガル語を勉強し、英国ケント大学カンタベリー校へ留学した時には、南アフリカ・モザンビークの政治経済について研究していたこともあり、将来、漠然とではあるが、モザンビークで仕事をしたいと思っていた。人はイメージや希望を胸に抱くとそれが形となって実現するというが、私の場合には、まさにそれが現実となった。

モザンビークの公用語はポルトガル語で、英語は首都以外、ほとんど使用されていない。幸いにも私は、上智大学在学時に大学交換留学制度にてブラジルに一年間留学した経験もあり、ポルトガル語は生活や仕事をする上で不自由はなかった。モザンビークは17年間、内戦を展開していたため、国内のインフラは2000年代の開発期の現在も壊滅状態の地域が多い。とくに北部と中部は、給水施設・電気回路が破壊された地域が多いのが現状だ。20年近い内戦による疲弊から、初等教育への就学率も低く(71% :2004年度)、また識字率も低い。

モザンビークに赴任
私がモザンビークに赴任したのは2003年の3月中旬だった。モザンビークに到着しマプト空港を出た瞬間、湿気とむせるような暑さを感じた。黄色いタクシーが付近に数台とまっており、客引きのお兄さんに囲まれた記憶がある。大使館からの迎えの車で市内を回った時の第一印象は、キューバに似ているということだった。大学院を卒業して最初の会社に勤務していた時にキューバを旅行したことがあり、その印象は、ラテン的な魅力にあふれながらも、どこか粗野で原始的であるというものだった。モザンビークの首都マプト市内の住宅街は、そんなキューバに似た雰囲気を漂わせていた。マプト市内の道路の陥没がひどく、一般市民は「モザンビーク政府は道路を修復するための資金がないからだ」と理由を説明していたことを、今でも鮮明に記憶している。

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ポラナホテル

当時、日本大使館はポラナホテル内にあり、正面玄関とプールを通過して地下の階段を降りてたどり着いたのが日本大使館だった。由緒あるホテルで、建物は古いながらも重厚な感じがした。大使館に到着するとローカルスタッフが何人かおり、部屋ごとに担当業務が区分されていた。部屋ごとに挨拶をして回った私を出迎えてくれたのは、20年近く継続した内戦の歴史を感じさせない底抜けに明るいモザンビーク人の笑顔だった。こうして私の2年間に及ぶ (2003年~2005年)モザンビーク生活はスタートした。

草の根無償資金協力事業を担当して
私が国際協力の世界に飛び込んだのは、「女性と子供のために働きたい」という強い思いがあったからだ。モザンビークの大半の地域では、女性や子供をとりまく環境は過酷で、それを目の当たりにした私は、初めて女性と子供を助ける仕事をしたいと感じた。私が大使館で担当することになった草の根無償資金協力事業とは、外務省の資金供与のもと、1案件1千万未満の小規模プロジェクト。草の根無償の醍醐味は、何といっても現地のNGOがプロジェクトを実際に実施することにより、草の根レベルのきめこまやかな支援ができるところにある。

モザンビークは20年近く継続した内戦のため、首都以外の中部や北部地域は、基礎インフラも壊滅状態である上に、撤去できていない地雷や回収できていない武器も多く存在し、その数は、正確にはわからないほどだ。大使館では、ポルトガル語と英語のプロポーザルの審査、プロジェクト施行までのスクリーニングプロセスの行程作業、そしてプロジェクトが無事に進行しているかどうかを視察するためのモニタリングなどに追われる日々であった。モザンビークは、一年の半分は真夏だが、湿度が高く、気温は30度~37度。しかし大西洋に面しているため海の風が強く、内陸国と比較するとさほど暑さを感じず、過ごしやすい国である。

旧ポルトガル植民地のモザンビークでは、「人生いかに楽しく過ごして生きるか」に優先順位が置かれているため、「労働」に対する意識は日本的な「労働」の概念とは異なる。モザンビークに限らず、ポルトガル語圏の国々では、「人は人生を楽しむために生きる」と考えられているため、生活における「労働」の優先順位は低い。つまり、全体の中の労働の位置が低いのである。実際の業務で苦労したことは、現地に登録しているローカルNGOとの交渉であった。時間の流れがゆったりとしているモザンビークでは、日本と比較するとすべての物事の流れがスローペース。そして、その時間の流れを変えることは難しい。重要なのは、その雰囲気の中でどう仕事をしていくかだ。半年も経過すると、次第に仕事面でも生活面でも現地に適応し、現地NGOとの交渉におけるコツも把握できるようになった。団体担当官の言葉をどう解釈し、フォローアップを行っていくかも思考錯誤しながら習得することができた。私生活では、自宅や友人宅でホームパーティを時折行い、楽しい時間を過ごした。このようにして、私の怒濤のモザンビーク生活はあっという間にすぎていった。

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自宅に同僚を招く

フィールドの楽しさ
モザンビークで草の根無償を担当して一番の収穫は、フィールドで得られた経験である。業務の一環として、プロジェクトの進行状況を視察するため、月一回の頻度で首都を離れ、プロジェクトの視察に出かけた。現場まで四輪駆動で走る道中、農村地帯の風景を見ることで一般の人々がどのような生活をしているかを把握することができた。

首都マプト以外の中部と北部の農村地帯では、人々は自給自足生活を営み、野菜や果物やカシューナッツなどの豆類の栽培や海洋漁業で生計を立てている。各農村には小さな屋台があり、マッチなどは販売しているので手に入る。しかし、果物ジュースや缶詰などは農村に住むモザンビークの人々には高価であり、もっぱら、購入するのは旅行者や現地在住の外国人だ。もっとも、マンゴやパパイヤは現地の畑で栽培していることから、生の果物を搾って飲んでいる人はよく見かけた。

伝統的な中部や北部の農村地帯では、水・電気などの基礎インフラがない地帯が多く、人々は村にある井戸を使って炊事洗濯をしている。サブサハラアフリカの多くの国で水は、水因性疾病の原因となっており、モザンビーク農村地帯でも、水に関する衛生問題は緊急的課題である。大半の村の井戸や近隣の川から運搬してきた水は、人間の汚物や生活用水で汚染されており、煮沸した井戸水を飲んでも、下痢やアメーバ赤痢になる子供や女性は多い。こうした給水事情から、モザンビークでは、改善された水源を継続して利用できる人口は全国民の43%未満に過ぎない。

私自身、フィールド調査では、4日間シャワートイレなしの生活を余儀なくされた経験もあるが、女性や子供、工事現場の人夫と話しをする機会などもあり、農村地帯の人々の生活を知ることができた。モザンビークの多くの地域では、人々が生活する住居は茅葺き家屋の簡素なものであり、農産物や海産物を栽培・採取する自給自足の生活をしている。絶対的貧困(モザンビークの人間開発指数は177位中168位:UNDP人間開発報告書出典)者が多いといわれる国だが、人々のパワーと底抜けの明るさに接することにより、人生について学ぶことは多かった。

モザンビーク農村地帯の女性と子供
モザンビーク北部の海岸線地帯には、実に美しいビーチが展開している。カーボデルガード州にあるペンバの海岸線には、美しい珊瑚礁のビーチが広がっていたが、その周辺には農村が広がり、人々は茅葺き屋根の家に暮らし、家畜を飼い自給自足の生活を営んでいる。北部農村地帯を訪問したときは、人間より家畜を多く見たことも印象的だった。

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伝統的な漁業用の船(モザンビーク北部)

モザンビークでは、女性が籠やバケツを頭に乗せて何キロも炎天下の中を歩く姿をよく見かけた。女性は何キロもの舗装されていない道路を、何時間も歩いていた。そして子どもたちは、最寄りの小学校まで平均5キロ~10キロ歩く生活を送っている。それでも、小学校が近隣にある村はまだ良いほうだ。地域によっては、小学校が近隣の村にない場合もある。そうした場合、子どもは初等教育を受けることができない。小学校が遠いという事情もさることながら、多くの子どもや女性は、家事や手伝いに追われ、学校が遠い存在になってしまうことも多い。こうした状況を改善するために、モザンビーク中部と北部の農村地帯に、小学校、給水施設、保健所が隣接した総合的な施設の建設計画を投入することによって、水因性疾病の削減と初等教育へのアクセスを容易にすることが期待できる。

近況
私は2005年4月に帰国し、現在は内閣府に置かれている国際平和協力本部事務局に研究員として勤務している。モザンビーク・アンゴラを中心とした南部アフリカを研究をする一方、複数の大学で特別講義を行っている。講義の際に大学の担当教員からは、「大学生が国際協力に関心をもつきっかけとなるような国際協力のフィールドの話をしてください」、「開発途上国の現場は大学生や一般の日本人にとっては大変遠い話であり、途上国の現場の臨場感をリアルに伝えてほしい」と要請されることが多い。現在まで4つの大学で9本の講義を行ったが、どの大学からも要求されるのは共通してこうした内容である。

多くの大学は、「国際関係論」、「国際社会学」、「開発経済学」の講座を持っており、講義後には、「多くの大学生が開発途上国の現状特に女性や子供がどのような環境にて生活しているのか」、「女性として国際協力のフィールドで仕事をして困ったことは何か」など、女性として経験した現場での苦労に質問が集中する。大半の大学生は、開発途上国のフィールドは遠い存在と認識しつつも、マラリアやHIVなどの世界的課題については関心を持っているようだ。私が大学での講義を引き受けるのは、大学生に少しでも国際協力に関心を持ってもらうきっかけとなればとの思いからだ。どの大学でも、フィールドや現場の様子が知りたいというのは共通しており、私のこうした対外活動が、未来の国際協力の業界を担う若者たちが育つきっかけとなればと願っている。

「女性や子供の生活状況改善のために貢献したい」と純粋な思いを抱いている人にメッセージを贈るとすれば、“国際協力の世界への関わり方はいろいろある”ということだ。NGOでボランティアをする、日比谷公園で開催されるグローバルフェスタに参加するなど、さまざまな形がある。こうした参加は、国際協力における人材育成への一歩となり、将来的に日本の国際協力業界へのつながるのではないかと考えている。

おわりに
モザンビークでの生活で得た一番の財産は、絶対的貧困の中でも物事をポジティブに考えることと困難の中でも笑顔を絶やさないこと、つまりラテン的オプティミズムである。「現代日本は物質的豊かさには大変恵まれているが、精神的豊かさは充実しているか」と新聞の論壇や雑誌などで論じられて久しい。精神的豊かさを持ったアフリカの人々に会えたことは、私の人生の中で貴重な経験となったといえる。

Vol.4 アフガニスタン復興支援 ‐セレナホテル襲撃・恐怖の夜

国際移住機関(IOM)アフガン事務所に勤務する
茅 和伊 (かや かつい)さんからの現地レポート

『国際開発ジャーナル』2008年月号特集「どこに向かうアフガニスタン支援」でもお伝えしたとおり、復興の現場では、常に危険と背中合わせの状況のなか、復興支援に奮闘する人たちがいる。

同僚の姪が伝統的なアフガン衣装でお出迎え

2008年1月14日、この日は取り立てて慌しくもなく、どちらかというとのんびりした朝から始まった。世界でも有数の安全大国、日本での正月休暇を終えカブールに戻ってきてから約一週間が経ったところであった休暇に出る前にアフガン軍などを狙ったテロ攻撃が続いたため、軍の車が事務所の前を通る午前8時半までの間は国際移住機関(IOM)の車をゲートから出さないという規則ができた。冬は毎年テロ活動も「冬眠」に入り多少沈静化すると言われているので、休暇から帰った極寒の1月には、“この規則も解除されているはず”と高をくくっていたが、あいにく治安状況に変化はないとのことだ。ゲート開閉の時間制限を設けているのはIOMだけであったため、家をシェアしていたハウス・メイトの一人である国連開発計画(UNDP)職員のダルコが先に出勤するのを見送った。

「なぜ私だけ面倒な規則を守らなければならないのだろう」と、帰国後の平和ボケが覚めやらぬ自分にはいまいち納得が行かないまま、テレビを見たり紅茶を飲んだりしながら車が来るまで一人で時間を潰した。十数時間後に国際社会を震撼させる事件が起こるとはつゆも知らずに・・・。

事務所で仕事をしているといつの間にか4時を回り、そろそろ日も沈み始めようかという頃となっていた。家の中にある食料などが大分不足していることにふと気が付き、ダルコにEメールを送り一緒にスーパーに行かないかと誘った。すぐに返信があったが、これからセレナホテルのジムに行って運動するつもりなので、今日は難しいという内容だった。一人で買い物に行くことに抵抗はなかったので、「ノー・プロブレム、運動を楽しんできてね」と伝えた。

その後、仕事の片付けや雑用を済ませていると、ちょうど6時13分に“ドン!”と、重みのある音が響いた。この種の音を聞き慣れている私は、どこかで爆発があったのだとすぐにわかった。カブールで生活していると、コントロール・エクスプロージョン(回収した地雷を集めて意図的に爆発させること)などを含めて爆発音を聞くことはほぼ日常茶飯事であるため、とくに慌てる訳でもなく、「具体的な情報が入るまで様子を見よう」という程度の気持ちで雑用を続けていた。

数分後に隣のオフィスに行くと、先程の爆発はセレナホテルの入り口で起きたものだと同僚が言う。

セレナホテルといえば、ダルコ!

ちょうど彼がジムに行くと言っていたことを思い出したが、セレナの警備が非常に厳重な上に敷地も広く、仮に入り口に爆弾が仕掛けられていたことが本当であっても、ダルコがそこに出くわして巻き込まれた可能性は非常に低いはずだと自分に言い聞かせた。念のためにと思って電話してみると、こともあろうが彼の携帯電話は圏外になっていた。もしや爆発で電話が吹き飛ばされたのでは・・・」という思いを振り払うように数分後にもう一度かけてみると、少なくとも今度は呼び出し音がした。電話が鳴るということは、爆弾で吹き飛ばされた訳ではないということ。ダルコはきっとジムでのん気に運動を続けており、「ロッカーのなかにある携帯電話が聞こえないだけ」と自分に説明をしてみると、一応、つじつまが合うような気がした。

しばらくしてユネスコで働く友達から電話があった。「大丈夫か?」という安全確認が目的だった。自分は無事だけれどダルコが心配だと伝えると、彼が知る限りではセレナの入り口で自爆テロがあり、警備員が犠牲になったとのことだった。新しい情報が入り次第連絡するのでとにかく落ち着いて、定期的にダルコに電話し続けてというアドバイスを受けた。

そうこうしている間に7時近くになったので、ダルコの様子がわからずに、すっきりとしないまま事務所を離れた。セレナホテル方面以外は特に行動規制は敷かれていなかったため、予定通り帰り道にあるスーパーに向った。もう一度ダルコに電話してみたが、相変わらず呼び出し音がなるだけ。不安を掻き消すために「ずいぶんのん気なものだ」と半ば呆れながら買い物リストを頭のなかで確認した。スーパーの中に入った頃、再び友達からの電話が鳴った。新しい情報によると、タリバンが犯行声明を出しており、4人の仲間がセレナホテルの中に侵入することに成功したと発表しているという。どうやらホテル内でも手榴弾などが爆発したらしい。この情報だけでは何も断定できないが、心のなかに更なる不安がよぎる。大丈夫、そんなまさかと思いながらもなぜか落ち着かない。

部屋に戻った私は簡単な食事をとりながら、「何という夜だろうか」と考えていた。時間はすでに9時近く。ダルコが普段ジムから帰ってくる時間はとうに過ぎており、私の立てた「のん気に運動を続けているため電話の音が聞こえないだけ」という仮説はすでに説得力を失っていた。自分に何ができるかわからず、藁にもすがる思いでIOMのセキュリティー・オフィサーに電話をした。状況を伝えると、彼はまだパニックに陥る必要はないと言う。つまり何百人という客が現在ホテル内に待機しており、そのような事件の直後にテロリストの通信を妨害するために国際治安支援部隊(ISAF)が携帯電話の電波を切るのは普通であり、電話に出ないことがイコール緊急事態ではないというわけだ。

10時半くらいだったか、もう一人のハウス・メイト、ハニフェと共にリビングでテレビをつけた。その直前にハニフェが友達から得た情報によると、4人の潜入者はセレナの中で手榴弾を投げただけでなく、銃を乱射したという。

それを聞いて返す言葉を失っていた矢先にBBCのニュースが始まり、ハニフェと私はテレビに釘付けとなった。始めのニュースはどこかの大統領が会議でこういう発言をしたというようなもの。今では内容すら思い出せないが、「こんな重大事件が起こっているのに世界はなぜどうでもよい話をヘッドラインにするのだろうか」と苛立ちを覚えた。すると画面はセレナ付近の見慣れた光景に変わり、やっとセレナ事件についてのニュースが流れ始めた。キャスターはビジネスライクな早口で、「セレナが襲撃された」「4人のタリバンが潜入し、中で発砲した」「その内の一人はジムの男性ロッカールームで発砲」「今のところ死者6人、負傷者10人(注:結果的には死者8人、負傷者9人であった。)」という要点のみ説明した。たった2分くらいのレポートだった。ハニフェと私は顔を見合わせ、どちらからともなく発した言葉はMy God!!!」の一言だけ。

私自身セレナのロッカールームを利用したことは何度もあるが、それほど大きい訳でもなく、人がたくさんいたとしてもせいぜい10人くらいだろうか。そのロッカールームで、まさにダルコがいたジムの横にあるロッカールームで6人死亡・・・。もう慰めの言葉は効かない。私の心の中で少しずつ覚悟が固まった。友達を一人失ったかもしれない可能性がじわじわと体に突き刺さった。混乱と不安が頂点に登りつつあるなか、心臓の鼓動が激しくなるのが感じられた。

その数分後、突如として表の道路に車が止まる音がし、呼び出し音が鳴った。絶望の淵に突き落とされたようなハニフェと私が、「帰って来たのがダルコでありますように」という祈りを胸に家を飛び出すと、本人がそこに立っているではないか。

抱き合って無事帰宅したことを喜び合った後リビングに移動した。改めてよく見てみると、そこにいたダルコは冗談好きのいつものダルコとは別人のようで、目が充血し、頬が硬直し、ただ事ならぬ緊張感を漂わせていた。

「僕の人生は今日で終わりだと思った。ここにこうして生きて帰って来たのは奇跡的な幸運だけど、本当に死ぬ寸前だったよ」

彼の話を要約するとその夜起こった出来事は次のような内容である。
ダルコは6時13分の最初の爆発があった時、ジムでいつも通りの運動をしていた。かなり大きな音ではあったが、まさか敷地内で爆発が起こったとは思わずそのまま運動を続けていた。数秒経ってからもう一発、爆発音がした。やはり爆心地からの距離感ははっきりしなかったが、立て続けに起こる爆発に恐怖を感じ、運動していた人びとは次々に荷物を取りにロッカールームに向った。ダルコがどうすれば良いか決めかねジムの中でもたもたしていると、すかさずに三発目の爆発音が鳴り響いた。さすがに行動に移さない訳にはいかず、ダルコも他の人に続いてロッカールームの方へ走った。

ドアを開けて中に入ってから僅か一秒。銃弾の音と共にダルコの横1メートルくらいの場所に立っていた男性がお腹を抱え、そのまま床に倒れた。同時に飛び散った血を前に、頭のなかは真っ白に。周りを見ることも、考えることも、呼吸することすらままならなかったが、「この部屋を出なければならない」という直感だけがダルコの体を瞬時に突き動かした。部屋を出ようとする自分のすぐそばで銃弾の音がした。遠くで鳴る音ではなく、体のすぐ横をかすめる音。その時は無我夢中だったが、後になって考えてみるとテロリストは自分を狙って撃っていたに違いないという。この時彼の生死を分けたのはたった数十センチ、または数センチの幅だけ。
もしテロリストの指が一ミリ傾いていたら?引き金を引くのが一秒早かったら?ひじの角度が一度でもずれていたら?そのような些細なことで銃弾はダルコに命中していたかもしれない。むしろ死をかけて訓練してきたテロリストが狙いをはずしたことの方が不思議なくらいだ。

ジムに戻ったダルコは向かい側に隣接している女性専用ロッカールームに駆け込んだ。幸いこちらにはテロリストの手は及んでおらず、なかにいた女性客は状況がわからずに混乱していた。ダルコが男性ロッカールーム内で今現在起こっている惨事について告げると、女性客は一気にパニックに陥った。男性の「始末」がついたら今度は女性の番だろうか。テロリストはいつ女性ロッカールームに入ってくるのだろうか。皆殺し?それともその前にレイプ・・・?そう思って皆恐怖に震え上がった。恐怖感の表現は人それぞれで、泣き叫ぶ人もいれば、動き回る人もいれば、冷静さを保ちながら大使館に電話して助けを呼ぶ人もいた。

5分くらいすると銃弾の音もすべて収まり、不気味な静けさが広がった。叫んでいた人も声を潜め、息を呑んで様子を伺った。テロリストが男性サイドの殺戮を終え、次の獲物を狙って入ってくるか、それとも軍隊か警備員によって捕らえられたかどちらかであった。ダルコはここで自分の人生は終わるのだ、と覚悟を決めた。

どうぞ助かりますように、と必死に祈りを唱えること約15分。この永遠に匹敵する15分の静けさは、ついに遠くから聞こえるホテルの警備員の声によって破られた。警備員は女性ロッカールームに辿り着くと、そこにいた客を全員速やかに地下に誘導した。移動の際にロッカールームとロビーの間にあるジム専用のレセプションを通ったが、そこにはマッサージ士の死体が血まみれになって通り道を塞ぐ形で横たわっており、ダルコを始めとする客は全員彼女の体をまたいで進まざるを得なかった。つい数十分前まで笑顔で客に応対していた明るい女性の面影はもうそこには無かった。

それからの数日はあっと言う間に過ぎた。上司から海外に出て静養するよう指示されたばかりか、連日、多くの人びとにセレナ事件について聞かれたのがこたえたとダルコは言う。自分の体験について何度も繰り返し話すうちにその時の光景や感覚が甦り、徐々に恐怖感が増してきたのだ。同じ環境下にある限り、回復するどころか再びトラウマに遭うのではないかと感じたダルコは、三日目の朝、ついにスーツケースをまとめて家を出た。さよならでもない、でもいつまた会えるかわからない不思議な別れだった。アフガンに戻ってくるかどうかはもう少し落ち着いてから決めるというが、たった数週間で癒えるような心のダメージではないという気がする。

カブールに別れを告げることがダルコにとって本当の意味で恐怖体験の終わりではないのと同じように、セレナ事件以降、残った私たち援助関係者にとって脅威が終わった訳ではない。むしろ状況は逆で、カブールの治安は悪化する一方だ。その証拠に事件の翌日タリバンは「これからは作戦を変え、外国人が出入りするレストランを攻撃の対象とする」と発表したが、これが潜在的に意味することは恐ろしい。つまり、それまでのタリバンの攻撃は外国軍、又はアフガン政府のなかでも軍と警察を狙ったものが多く、援助関係者が巻き込まれるとしたら、それはたまたま運悪く現場に居合わせたからというものがほとんどだった。

昨年の5月にタリバンの司令官ダウドゥッラが、「これからはアフガン政府、外国軍だけでなく国連もターゲットにする」と発表し、国際社会が震え上がった時期があった。カンダハールでUNHCRの現地職員が殺されたのはその頃だ。数週間後に外国軍の攻撃によりダウドゥッラが殺されて以来、幸いにも国連が直接的ターゲットからは外された様な印象があった。ところが、テロリストが国連職員を含めさまざまな外国人が利用するセレナのなかで無差別に発砲するという今回の事件によって、まさかの脅威が再び甦ったというわけだ。国家予算の約75パーセントを外国援助に頼っているアフガン政府にとって、治安の悪化により国連を始めとする援助機関が国外に脱出する事態となれば大いなる痛手だ。

また国際社会にとっては「テロとの戦い」における敗北を意味し、タリバンにとっては歓迎すべき結果となる。それに対抗するかのように、国連事務総長の播基文は「このような惨事があっても、国連は途中でコミットメントを投げ出したりするつもりはない。アフガニスタンの人々と一緒にこれからも復興活動に従事していく」と宣言した。まさに我慢くらべの幕開けである。

外出禁止という状態で毎日死に怯えながら生活している援助関係者の存在は、今では政治のコマと化し、実際の治安状況とは無関係にこうしてパワーゲームは続く。

少なくとも私たちのうち、誰か一人が殺されるまでは・・・。

パルワン県にあるプロジェクトサイトでコミュニティーの住人
パルワン県にあるプロジェクトサイトでコミュニティーの住人と撮影。
文化的理由のため、女性は子供も含めて写真に写りたがらず、ポーズしてくれるのは男性ばかり。

カブールの何気ない道端の光景
カブールの何気ない道端の光景。
舗装された道は非常に少なく、でこぼこ、泥だらけ、しかもごみが散乱という厳しい状況。
羊などの家畜もよく歩いている。

Vol.3 少年の人生変えたある日本人の教育支援

食料倉庫の前でほほ笑む一人の青年(写真上)。現在、国連世界食糧計画(WFP)のドライバーとしてケニアの難民キャンプで活躍中のザブロン・モカヤさんだ。

現在の zablonさん

「今の自分があるのは、タカコのおかげ」――約20年前、地方の小さな村の中学生だった彼(写真〔下〕中央)は、成績は優秀ながらも学費が払えず、退学寸前に追い込まれていた。だが、1987~89年に青年海外協力隊の理数科教師として学校に派遣されていた“タカコ”こと中村(旧姓原田)貴子さんが費用を肩代わりしてくれ、通い続けることができた。
ケニア西部キシイ県キメラ村の中学校で生徒の理数科を学ぶ意欲を高めるため、実験を重視した物理などの授業を行っていた中村さん。しかし現地では「年間5000円ほどの授業料が出せず学校をやめる子が大勢いた。特に勉強熱心で優秀なザブロンのような生徒が、お金がないだけで学ぶ機会を絶たれてしまうのが残念でならなかった」。また、厳しい境遇にあっても懸命に生きる子どもたちの姿を目にし、自身を見つめ直すきっかけをもらったからと支援を始めた理由を語る。

zablonさん(中等学校時代)

同国では、初等教育は無料だが中等教育は学費がかかり、貧しい家庭の子どもたちは学校に行けず、中等教育修了時の国家試験も受けられない。日本以上に学歴社会であるため、この試験の成績が進学の可否を決定し、就職、昇進、給料にまで影響する。

とはいえ、すべての生徒を支援することはできない。悩んだ中村さんはJICAの奨学金制度があるふりをして、ザブロンさんを含む数人の成績優秀者に学費や教科書を与えた。時には「お金より仕事がほしい」「一部の子どもに対するひいきだ」と言う生徒や教員がいて支援の難しさを感じたが、「まいた種がいつかどこかで実れば」と個人的に援助を続けた。

帰国後も、自動車の専門学校に通うザブロンさんに学費を送った中村さん。結婚・引っ越しを機に音信不通になってしまい心配していたが、昨年、WFP日本事務所を介して十数年ぶりに連絡があった。「あのときタカコに会えなかったら今の自分はなかったかもしれない。タカコに助けてもらったように自分も困っている人の力になりたい」と彼は話す。

中村さんいわく「隊員から個人的支援を受けた人はほかにもたくさんいる」。83年に隊員有志が始めた奨学金活動、KESTES(Kenya Student Education Scholarship URL:http://www.geocities.co.jp/NeverLand/1817/)は、ケニアの協力隊やそのOB・OG、JICA職員、ケニア在住の日本人などの寄付で成り立ち、これまで400人以上の子どもが奨学金を受けた。そんな彼らもザブロンさんのように感謝の気持ちを胸に、きっとどこかで頑張っているだろう。

(注)現在JICAでは、現地でのボランティアなどによる個人的な金品の支援は防犯上注意が必要であることなどから、奨励していない。

2007.12.07

Vol.2 インドネシアで水球を指導

2000~2003年、国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊員として
インドネシアに派遣された松島泰樹さんのレポートです。

―なぜ協力隊に参加したのか―

青年海外協力隊に参加する動機は人それぞれである。
「途上国の人々の役に立ちたい」と正義感や希望に燃えて参加する人、
「己を磨きたい」という人、「なんとなく、海外に行って自分を変えたい、自分探しをしたい」という人・・様々である。
私の場合、それらのどれにも当てはまらなかった。
私は中学、高校、大学の10 年間、水球の部活漬けの日々を送ってきた。
大学3年の秋、周りが就職活動を開始した頃、ふと考えた。
「俺はこれまでの人生で水球しかやってきていない。このまま就職しても、
狭い世界しか知らないスポーツ馬鹿(言葉は悪いが)としか見られないのではないか」と。
つまり「まだ就職したくない」という気持ちが私を協力隊に参加させたのであった。
そこで、若気の至りの典型的パターンで(笑)、「海外に行って何かしたい」と考え、情報収集しているうちに、
協力隊のパンフレットに「職種:水球、派遣国:インドネシア」という案件を見つけ、
「これなら、俺の唯一のスキルである水球を生かして海外で経験が積める。これしかない」と受験し合格。
平成12年度1次隊としてインドネシアに派遣されることとなった。

―赴任―

福島県二本松市で語学を中心とした2ヵ月半の訓練を受け、2000年7月にインドネシアに上陸。
最初の1カ月は古都ジョグジャカルタでホームステイしながらの語学研修を経て、スマトラ島パダン市に赴任した。
赴任当時、パダンの水球チームは既に解散状態だった。
そのため、まずは選手集めからのスタート。
インドネシアでは日本のように各学校にプールがある訳ではなく、パダン市内の主な中学、高校の水泳の授業は「テタライプール」という市営のプールで一括して行われていた。
そこに目を付け、プールで授業を行っている各学校の教員を集め、「今度、水球チームを作りたいんだが、子どもたちに水球をやらせてみないか?」と持ちかけたところ、
こんな田舎町に日本人が来た・・・という物珍しさも手伝ってか、練習初日にはなんと50人もの中・高校生が集まった。
大半の子どもたちは水球はおろか、泳げない子どもたちばかりだったので、まずはバタ足から指導していった。
しかし、元々のんびりとした(いい加減ともいう)国民性である。日本人の私が課す練習がきつかったのかどうかは知らないが、
日一日と子どもたちは減っていき、1週間過ぎる頃には、3人しか残っていなかった。こうなると、「去る者追わず、来る者拒まず」である。
選手を集めては数人残り、また選手を集め・・・・これを何度か繰り返すうちに、 15人前後の選手が集まり、なんとか水球チームとしてスタートを切ることが出来た。

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指導中の風景

―ホームステイ―

私が3年間、充実した協力隊生活を送ることが出来たのは、ひとえにステイ先に恵まれたという事を抜きには語れない。
ステイ先の主人、Edwar 氏は、水球練習会場テラタイプールの所長であり、水球チームの練習場所の確保、遠征における費用集め(後述)など、
公私共に本当にお世話になった人物である。
また、3食美味しい食事を提供してくれた奥様のLolaさん、ある意味、私のインドネシア語の師匠であったBoboy君やDaraちゃん・・・
本当に毎日が楽しく、温かみのある日々だった。今でも時々あの頃の生活に戻りたい・・・とノスタルジーに浸る時がある。
今思うと、こうして彼らと同じ食べ物を食し、気の置けない付き合いをインドネシア赴任当初からすることが出来た私は幸せだったのかもしれない。
今でも、時々電話で連絡を取り合うEdwar 氏の家族とは、滅多に会うことはないが、第二の家族としてこれからも友情は続いていくだろう。

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ステイ先の子供たちと

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ジャカルタに向かう船の上で

-我慢の日々-

さて、話を戻そう。ようやく人数も集まり、チームとしての様相を呈してきたとはいえ、異文化にて水球を指導する際の困難は常に付きまとった。
一般的に、東南アジアの人々はのんびりしているとよく言われる。しかし、悪く言えば、万事において「いい加減」で、インドネシアも例外ではない。
指導を始めた当初、選手らは無断欠席、遅刻は当たり前。ゴミはどこにでも捨てる、プールサイドで平気で唾は吐く・・・。およそ「規律」からは程遠い状態であった。
もし、日本であれば、当然指導者として選手に厳しく注意、叱責し、規律を保たねばならない。しかし、私はあえてそうはしなかった。その代わりに、例えば選手らがプールサイドにゴミを捨てたら、彼らの目の前でそれを拾い、ゴミ箱に捨て、「この国の習慣でゴミを適当に捨てても咎められないのは、知っている。だが、遠く日本から来た外国人に“インドネシアと云う国はこういう国なのか、教育が足りないな”と思われて、恥ずかしくないのか?お前らのその行動が、祖国の名前を名誉を傷付けているんだぞ。俺は、強制はしない。自分らで良く考えろ。」と諭し、プライドを刺激し、奮起させる方法を採っていた。そのような方法を採ることにより、彼らは自分で考え、次からはゴミを捨てなくなる。しかし、何日かすると、また忘れて同じことを繰り返すことが多いので、その都度根気よく諭し続けた。
言葉、文化、習慣が違う中での指導で、頭にくることも多々あったが、常に「我慢」し、一歩譲った立場から、「何が、何故いけないのか」ということを諭し続け、考えさせることを心がけた。なぜなら、ここは日本ではなく、インドネシアなのだ。彼らにとって、生まれた時から、その状態が当たり前なのであり、もう何百年もその方法でやってきているのである。それに対し、「よそ者」が強く非難、叱責したところで、反発されるに決まっている。我々だって、いきなり来た外国人に「だから日本人は駄目なんだ!」と言われたら頭にくる。それと同じである。許容範囲を超えそうな時も、我慢し歩み寄る努力をせねばならないのである。しかし、ただ相手にいい顔をするだけでは、単なる「迎合」である。相手を尊重しつつも、こちらの考えもきちんと示さねばならない。――――そのバランス取りに苦労し続けた。

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試合中、神に祈りを捧げる選手たち

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水質のあまり良くないプールにて

-順風-

そうやって指導を続けている内に1年近くが経ち、初めて全国大会に参加する機会を得た。
しかし、まだ立ち上げたばかりの水球競技である。地元水泳連盟の腰は重く、
また、水球のための強化費を水泳連盟上層部の役員が着服するなどして(インドネシアでの汚職は日常茶飯事)、一向に遠征費用を出してくれない。
そのため、連盟はあてにせず、練習の合間を縫って、協力者たちとともに、地元の有力企業を中心にスポンサー探しに奔走した。
インドネシア語で遠征計画書、費用支援要請書、予算案を作成し、スポーツ振興に理解、実績のある企業を中心にお願いして回った。
大体の場合、日本人という事で、すぐに各企業の上層部の方々に話を直接聞いて頂き、
「わざわざ日本人がインドネシア語を学び、地元のスポーツ振興に頑張ってくれている。よし、一つ協力してやろう」と、
数社から資金支援の承諾を取り付け、遠征費用も目処がついた。

――この件だけでなく、様々な交渉時にインドネシア語が喋れるということで、交渉が円滑に進むことは多かった。言葉が出来るということは、何よりのアドヴァンテージであったには違いない。しかし、今思うと、それよりも彼らと同じ食事を手掴みで一緒に食べたり、インドネシア語のジョークを覚えて笑わせたり、断食に一緒に参加するなど、インドネシアの文化に適応しようという姿勢が、彼らに好感を抱かせたのではないかと思う。郷に入りては郷に従えではないが、異国で生活する際、その国の文化、習慣に適応しようと努力する外国人に対して、心を開いてくれるものだと、事あるごとにしみじみ感じた。

なんとか資金の目途もつき、大会に参加。そして、水球を始めて1年経たない選手らが、あれよあれよと勝ち抜き、なんと、いきなり全国大会で準優勝してしまった。その結果、その後は比較的容易に資金の調達が可能になり、大会にも頻繁に参加し、強化は順調に進んでいった。それに伴い、選手らの規律も向上し、確かな手ごたえを感じつつ、また1年近くが過ぎた。・・・しかし!

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試合後、選手らと

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屋台にて手掴みで食事中

-再出発-

強化が順調に進む中、協力隊活動も2年以上が過ぎた頃、大きな問題が待ち受けていた。
「選手らの進学問題」である。
指導してきた選手らの大半が高校3年生であり、卒業後の進路を考えなければならない時期が迫っていた。
15人の選手のうち、パダンでの大学進学志望者は僅かに2名。残りは就職するか、故郷に帰って家業を手伝うという。
このままではチームは崩壊である。
そこで、選手らを大学に進学するよう説得し(彼らの故郷までバスで12時間かけて赴き、両親らを説得したことも!)、
最終的に7人の選手がパダンでの大学進学に同意した。
その日から、選手らを受け入れてくれる大学探し、選手らの入学資金調達(裕福でない子が多い)のため、スポンサー探しの日々が続いた。
相談を持ちかけた何校かのうち、一番手ごたえを感じた、パダン国立大学と交渉を続けたが、インドネシア独特のゆったりとしたリズムで中々話がまとまらない。
このままでは埒が明かないと、ある日、大学学長に直談判したところ、
「インドネシア語を喋る日本人は初めて見た。いいよ」の一言であっさりと受け入れが決まり、いささか拍子抜けしたが、インドネシアの適当さに助けられた形となった。
なんとか金銭面での目途もつき、選手らの大学進学も決まり、既存の選手らを中心に、
半年前に立ち上げたばかりのジュニアチームの中学生等を練習に加え新チームで、再び練習を重ねていった。
当然練習のレベルも落ち、基礎から鍛え直す日々が続いた。そんな中、帰国を半年前に控えた頃、嬉しいニュースがチームに舞い込んできた。
キャプテンのEdi選手と、Daniel選手が、ベトナムで開催される東南アジア大会向けたインドネシア代表候補合宿に召集されたのである。
Ediは18 歳、Danielはまだ16歳である。2人とも、水球を始めてまだ2年ちょっとしか経っていない。これだけの若さで代表に選ばれることは、日本以上に年功序列が厳しいインドネシアでは滅多に無いことであり、帰国を前に自分のやってきたことが一つの形になって現れたと、素直に嬉しかった。

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世界最大の花ラフレシア

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島、ビーチが美しい

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バダン近くの湖

-伝えたかったこと-

その後、ナショナル合宿に2人を送り出し、残ったメンバーの底上げを図っているうちにまた数カ月が過ぎ、後任隊員のBさんがインドネシアに来た。
彼に引き継ぎをし、自身の身辺整理をしているうちに活動任期も終わりに近づき、3年間一緒にやってきたインドネシア人コーチPeris氏とBさんに全てを託し、帰国。
長いようで、あっと言う間に駆け抜けた3年間だった。

青年海外協力隊は、外務省傘下の組織、国際協力機構(JICA)によって、「途上国への人的援助、支援」を目的に途上国に派遣される。
しかし、先進国から途上国に対する一時的な援助、支援に終わってしまっては意味が無い。
途上国の「未来」を作るのは、あくまでその国の「人」であり、彼らが外国からの支援無しでもやっていけるようにすることが、本当の「国際協力」ではないだろうか。
そして、その「人」を形成する上でもっとも大切なのは、「教育」なのだ。
―――協力隊に参加当初はそんな考えなど持ち合わせていなかったが、日々水球を通じインドネシア人と関わり続け、そう考えるようになっていた私は、
「スポーツ(水球)が持つ協力的意味合い」を大切にして指導を行ってきた。
別に体育会礼賛主義ではないが、水球だけでなく、どのスポーツでも、それを通じて学んだことが、その後の人生における人格形成に、大きな影響を与えることは確かである。
私が水球を通じて学んだこと、「礼儀、規律を守ることの意義」「他人を思いやる心」「努力することの大切さ」などを、インドネシアの子供らに少しでも伝えたい、水球を通じて彼らが人間として成長し、それがインドネシアの未来につながれば・・・という願いを込め、ひたすら指導に明け暮れた3年間だった。
もちろん、私一人の力で全ての選手らに私の意図が全部伝わったとは思っていないし、指導した全ての選手らを変えることが出来たわけでもない。しかし、私という存在、水球を通じて、彼らが何かを考えるきっかけになったならば、それで良いのである。

3年間いろいろなことがあった。インドネシア代表チームのコーチをしたり、日本での審判のライセンスすら持っていないのに、国際試合の笛を吹いたりもした。デング熱、アメーバ赤痢等、メジャーどころの?病気にも罹った。様々な人々と出会い、異文化の中での指導で悩み、葛藤し続け、インドネシア人に失望させられることも多々あった。しかし、今振り返ってみると、嫌な思い出よりも、良い思いでのほうがはるかに多い。帰国後、既述のEdi選手がインドネシア代表入りし(Daniel選手は残念ながら落選)、ベトナムで開催された東南アジア大会に参加したという知らせがインドネシアから届いた時は、色々なことがあったけど、協力隊に参加して、本当に良かったと心から思った。
3年間、無事にやれたのも、現地のスタッフ、選手らに恵まれたおかげだと思う。協力隊は、「国際協力」というたいそうな名の下に途上国に派遣されるが、所詮は現地の人々の協力なくしては、何も出来やしないと感じた3年間でもあった。

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別れ際、空港にて

2007.10.12

Vol.1 インドの学校でボランティア

皆さんからの投稿記事をご紹介するコーナーです。
実践中の国際協力アレコレ…。どんな内容でも結構ですので、気軽にどしどしお寄せください!

第一回目は、弊社スタッフの国際ボランティア回想録です。

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国際開発ジャーナル社2年目の新海美保です。2004年夏から1年間、インドに滞在していました。目的は、「国際ボランティアをすること」。学生時代、月1回発行の大学新聞の編集に携わる中で、いわゆる開発途上国や紛争地域の問題解決を目指して奮闘する日本人や外国人に話を聞き、「へぇ~面白そうだな~。でも正直よく分かんない。自分で行ってみよ」と直感したのが、きっかけ?です。 そんな経緯でインドに行くことになったわけですが、しばらくすると、よくも悪くも自分の想像を絶する世界が広がっていることに気付かされました。 私は、ある国際NGOを通して、「Rakum school(ラクムスクール)」という、人々の寄付で成り立っている私立学校に配属され、簡単な英語や日本文化、美術、音楽の授業などをしていました。
生徒は約150人(といっても赤ん坊からおじさんまで全部生徒!)。孤児だったり、親が出稼ぎに出ていて育ててもらえないなど、さまざまな事情を抱えてこの学校にやってくる子どもたちは、校内に併設された寮で、食事の支度から洗濯、掃除、下の子の面倒まで、資金面以外はすべて自分たちでやりくりしながら生活しています。
そんな彼らと同じ寮で生活していた私は、当初、日本では見たことのない大小さまざまなタイプのゴキブリや猫のように大きなねずみに悩まされていましたが、慣れというのは恐いものです。そのうちあまり気にならなくなりました。


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朝・昼・夜3食ほぼすべてカレーという毎日の食事や、冷たい水のシャワー(時々お湯)、衣服の手洗い洗濯、日本とは異なる習慣やマナーも、だんだん普通になってきます。でも、どうしても慣れることができなかったのは、子どもたちから聞かされる過去の苦労話の数々です。
近年、インドは、IT産業を中心に飛躍的な成長を遂げていますが、その恩恵を受けているのは中産階級以上の人々に限られているのが現状だと思います。少なくとも私と暮らしていた子どもたちの多くは、低いカーストの出身で貧しい家庭に生まれ、教育の機会にも恵まれず、華々しいインドの発展とは無縁のところで生きてきました。


ココナツを売る男の子。インドの子どもはよく働く

ある15、6歳の少女は、貧しさから酒に溺れた父親が蒸発し、スラムで売春をしながら暮らしていました。また、ある20代の女性は目が見えないことから十数年間ほとんど外出させてもらえず、これまで一度も学校に行ったことがありませんでした。生まれたばかりの頃に学校の門の前で置き去りにされた少女もいます。目の前で両親の自殺を目撃した少年や、殴られたりナイフで傷つけられた跡が体に残っている少女、ミャンマーから逃げてきた子どももいました。

物乞いをする女の子。カメラを向けるとかわいい笑顔を見せてくれた

10代、20代での強烈な体験は、性格形成にも影響してしまいます。普段は元気で皆仲良くやっているように見えても、突然泣き出したり、暴れ出したり、他人を傷つけることがあり、情緒不安定になってしまうのです。
彼らを追い込んだ諸悪の根源は、貧困だけではないかもしれませんが、格差や貧しさがもたらす負の遺産は、明らかに何の罪もない子どもたちの将来をうばっていました。
ラクムスクールに入って、子どもたちの環境は以前より少しは改善されたのかもしれませんが、彼らを取り巻く状況はまだまだ厳しいものがあります。
彼らの願いは、「家族と一緒に幸せに暮らすこと」。
彼らのような子どもたちが幸せな生活を送れるよう、自分に何ができるのか、これからも考え行動していきたいと思います。

ドイツ人のルームメート(左)と筆者(中央)。右はラクムスクールのラクム校長

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