国際開発ジャーナル社 International Development Journal

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2017.03.09

【Mindanao便り】コラム コタバトの味

東南アジアのスパイシーなエスニック料理は日本でも人気がありますが、
残念ながらフィリピン料理の評判は余り良くありません。
しかし、イスラム教徒が多数居住するミンダナオ島南西部のバンサモロ地域に通っていると、
シーフード料理など日本人の味覚に合う料理が少なくないことに気付きます。

 

 

バンサモロの中心都市コタバトには、作り置きの料理を並べたローカル食堂があちこちにあります。
イスラム教でタブーとされる豚肉料理はなく、サンミゲル・ビールも置いていませんが、
鶏のローストや牛肉の煮込み、マグロのカマ焼き、
イカの墨煮、魚スープ、数種類の野菜料理などメニューは豊富です。
アサリ時雨煮のような貝のココナツ煮、トコロテンの原料テングサの酢の物などは、
そのまま和食に通じる味わいがあります。

何と言ってもお勧めは「キニラウ」でしょうか。

生のマグロの切り身と香味野菜を酢で和えたマリネのような一皿で、要するに鮮魚の酢じめです。
中南米の「セビチェ」にも似ていますが、このキニラウはミンダナオ発祥と言われています。

 

コタバトの市場では、目の前のモロ湾で水揚げされた新鮮な魚介類、
淡水のナマズやティラピアなどを売っていますが、
ある時、妙なものを発見しました。

「魚の麹漬」あるいは「馴れずし」です。

 

カツオと思しき切り身に米飯をまぶし、塩と甘味を加えて漬け込んだ発酵食品で、
琵琶湖名産の鮒寿司のようにも、西京漬や粕漬のようにも見えます。
試しに買って帰り、レストランで焼いてもらったのですが、
塩気が強くて硬く、まあ“珍味”というか、期待したほどの味ではありませんでした。
中国南部や東南アジアでは、伝統的な魚肉の保存法として馴れずしが知られており、
それがバンサモロ地域にも残っているのでしょう。
何度か試せば、おいしいものに当たるかも知れません。

 

ところで、コタバトの食堂には「豚肉料理はない」と書きましたが、
街中でギョッとする光景を見かけました。

何とフィリピン名物「レチョン」(子豚の丸焼き)を売っているではありませんか……。

 

コタバトはイスラム文化が色濃く浸透した町ですが、
フィリピン全体で圧倒的多数派のカトリック教徒や中国系住民も住んでいるので、
原理主義的な息苦しさはありません。

とはいえ、子豚が丸ごと切り刻まれている店の前を、
イスラムのスカーフを被った女の子たちが通り過ぎて行くのを見ると、
寛容というか緩いというか、何だか不思議な気分になります。

 


*「Mindanao便り」は月刊『国際開発ジャーナル』にて連載中です

2008.09.10

[現地取材レポート]キーコーヒーの「トラジャ・コーヒー開発」[2008.9.10]

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「トアルコ トラジャ」。
当時、“幻のコーヒー”と呼ばれていたトラジャコーヒーを復活させ、一大ブランドにまで育て上げたのが、キーコーヒー株式会社だ。今年は、1973年に第一次現地調査が行われてから35年、1978年にトアルコトラジャ・コーヒーの発売が開始されてから30年の節目にあたる。
インドネシアのスラウェシ島中部に位置するトラジャ県で展開されている同社のトラジャ事業は、幻のコーヒーを復活させたことにとどまらず、コーヒー栽培にかかわる人々の生活水準の向上や地域経済の発展に大きく貢献してきた。
企業の直接投資や貿易の拡大など、開発途上国の経済発展には民間の力が不可欠であり、「アジアの経験」とは、まさにこうした民間ベースでの経済活動が原動力となったということが認識されつつあるなか、われわれODAにかかわる者が、この事業から学ぶべきことは多い。

トラジャへの道すがら

日本から飛行機で約8時間、インドネシアのバリ島に到着。翌日朝、さらに飛行機で1時間30分、ようやくトラジャがあるスラウェシ島、マカッサルに到着した。マカッサルはスラウェシ島最大の商業都市で、古くから香辛料をヨーロッパへと運ぶ交易の港町として栄えてきた。キーコーヒーが日本で販売する「トアルコ トラジャコーヒー」も、この港から輸出されている。

トラジャコーヒーの里、南スラウェシ州中部に位置するトラジャ県まではここからおよそ330キロ。車で約7時間。マカッサルの町を抜け、パレパレまで2時間ほど海岸線上を北上するのだが、この区間の道路はよく整備され快適だ。海岸線の道路沿いには、見たこともない大きな魚の干物を売る店が立ち並ぶ。すれ違うトラックの多さから、この道路がスラウェシ島の物流動脈となっていることが理解できた。

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[・・・。]

パレパレで昼食をとり、一路、トラジャへと向かう。海岸線を走っていたときとは打って変わって山道だ。車での長距離移動には慣れているつもりだったが、気分が悪くなりそうになる。エンレガンの眺望がすばらしい峠の茶屋で小休止、さらに山肌をぬって進む。そうしてトラジャ県に到着したころには、すっかり辺りは暗くなっていた。

標高約700メートルに位置するトラジャの夜は肌寒い。マカッサルとの気温の差は歴然だ。

トラジャ・コーヒー開発事業2つの柱

第二次世界大戦やインドネシア独立運動など、戦中戦後の混乱の中で消滅したと考えられていた“幻のトラジャコーヒー”の復活をかけて、キーコーヒーがこの地を初めて訪れたのが1973年のことだ。それから35年という歳月を経て、今ではトラジャ県一帯が、世界的に有名なコーヒーの産地となっている。

トラジャコーヒーの名は広く知られているが、幻のコーヒーと言われた時代があったこと、それを復活させたのが日本のコーヒーメーカーだということを知っている人は少ない。恥ずかしながら、自分自身、このことを知ったのはごく最近のことだ。

キーコーヒーがインドネシアでコーヒー事業を進めるにあたって、74年に東食(現・カーギルジャパン株式会社)とそれぞれ50%ずつ出資し、「スラウェシ興産株式会社」(資本金2,500万円)を設立。76年には、スラウェシ興産が80%、インドネシアの「PT. UTESCO(ウテスコ社)」が20%を出資し、「PT. TARCO JAYA(トアルコジャヤ社)」(資本金69万ドル)を設立している。このトアルコジャヤ社が、トラジャコーヒーの復活を目指して行ってきた事業の柱は2つ。それが「住民栽培コーヒー事業」と「パダマラン農場開発事業」だ。

住民栽培コーヒー事業は、住民が栽培したコーヒー豆を集買所に持ち込んでもらい、買い上げるというものだ。

集買事業を開始した当時、持ち込まれるコーヒー豆には、木から摘んだままの「コーヒーチェリー」、脱肉、発酵、水洗、半乾燥までを済ませた「パーチメント」、さらにそれを脱殻した「グリーンビーンズ」があり、それぞれ買い取り価格には差があった。当然、チェリーよりはパーチメントが、パーチメントよりもグリーンビーンズの方が、キロ当たりの価格は高くなる。

栽培農家にとり、コーヒーチェリーの状態で持ち込めば、手間はかからない。しかし、保存が利かないため、収穫してすぐに集買所に持ち込む必要がある。また、コーヒーチェリーは水分を多く含んでいるため重く、道路インフラが整っていない遠くの村から運んでくることは難しい。

パーチメントやグリーンビーンズまで加工したものは、乾燥しているため運搬は楽であり、比較的保存が利くことから価格が高いときに持ち込めるなどのメリットもある。ただし、正しい精選加工技術が求められ、怠れば、割れ豆やカビ豆などが発生するリスクが高くなる。山間に村が点在するトラジャでは、多くの住民にとり、精選加工を済ませ付加価値を持たせた状態で持ち込むことの方が現実的であり、よりメリットも大きい。

実際、集買事業が開始された当時から、パーチメントの状態で持ち込まれることの方が圧倒的に多かったという。しかし当時は、栽培農家の品質に対する意識や技術が低く、持ち込まれる豆には、未完熟豆、割れ豆、発酵豆、カビ豆などが混入し、品質が悪く買い取れないものが多かった。

「生産者である農家の人が儲からなければコーヒー栽培は根付かない。儲かるからこそ品質の高いものをつくってくれる」と話すのは、自身、この地に赴任した経験があるキーコーヒーの吉橋宏幸氏。

こうしたことから、モデル農園をつくり、そこで正しい栽培技術や加工技術の普及を図るとともに、良質なコーヒーの苗木や肥料の無料配布を積極的に行ってきた。その結果、現在ではコーヒー豆の品質が向上しただけでなく、栽培農家自らが、すべてパーチメントの状態にまで加工して集買所に持ち込むようになった。

現在でも、こうした品質に対する取り組みは続けられており、昨年度は7カ村で農民講習会を開催、計2万2,000本の苗木を配布している。
もう1つの柱が、パダマラン農場開発事業だ。これはパダマラン山に直営農場をつくり、高品質なトラジャコーヒーを計画的に生産するというもので、これが本格的に開始されたのは、77年6月。開墾予定地は、もともと一部に旧オランダ時代のコーヒー農場があったところだが、長い間放置され、当時は密林と化していたという。

幹線道路から農場の入り口まで約6キロ。トアルコジャヤ社は、このアクセス道路の建設をトラジャ県に依頼するも着工の目処すら立たずに断念、その後、自力で造成している。こうしてアクセス道路の建設から始まったパダマラン農場開発は、ジャングルの開墾、農道整備、コーヒーテラスの造成、苗木づくり、肥料づくりなどが進められ、81年3月に、ようやく予定していた424ヘクタールのコーヒー栽培用地に約61万本の苗木の植え付けが完了。アクセス道路の建設を始めてから4年近くを要した。

また、84年7月には農場の敷地内に精選加工工場も完成、現在パダマラン農場では、コーヒーの栽培だけにとどまらず、コーヒー豆の精選加工も行っている。

サパン市場で集買事業を見る

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[サパンの市場には意外にも豊富な品々が並んでいた]

トラジャに到着した翌日の早朝5時30分、いよいよ集買事業を見に出かけることに。この日は日曜日、サパンで市場が立つ日だ。

この集買事業の対象地域となっているのは、トラジャ県北部の標高1,300~1,800メートルの山岳地帯。7,500ヘクタールに約7,000のコーヒー栽培農家が暮らしている。ウマ、ペランギアン、トンドリタ、バルップの4カ所に集買所があり、ここではトアルコジャヤ社が直接コーヒー豆の集買を行っている。また、6日に1回のペースで各村に立つ市場でも仲買人による集買が行われており、こうして集められたコーヒー豆は、ランテパオにある集荷検品所へと運ばれる。集買されるコーヒー豆は、グリーンビーンズ換算で、年間約500トンにも上る。

サパンを目指しランテパオの町を出発、間もなくして山道に入る。意外にも整備された道路に、聞けば90年代に日本のODA(無償資金協力)で整備された道だという。ちょうどこの「日本インドネシア友好道路」を抜けるころ、トンコナン・ハウスがあちらこちらに見えてくる。この船をかたどった屋根を持つトラジャ地方独特の家屋は、キーコーヒーが販売している「トアルコ トラジャコーヒー」のロゴマークにもなっている。
このトンコナン・ハウスが点在する風景はもちろん、トラジャ族はキリスト教徒が多く、同じインドネシアでもジャワ島やスマトラ島と違いモスク(イスラム教寺院)が見当たらない風景が新鮮だった。

途中、バトゥ・トゥモンガで朝食を済ませ、サパンに到着したのは9時30分ごろ。標高は1,500メートル。あいにくの小雨模様にもかかわらず、市場には多くの人が集まっていた。サパンに限らず、こうした市場では、コーヒー栽培農家が仲買人に豆を売って得た現金で、日用品や食料品などを購入している。

この日、ちょうど市場に豆を売りに来ていたタンディ・ラレさん(65歳)に話を聞くことができた。

サパンまで約10キロの道のりを、息子のパウルス(32歳)と2人で歩いてきたというタンディさんは、2週間に1度の割合で市場に来ている。持ち込むコーヒー豆の量はまちまちだが、この日は26万7,000ルピア(約3,140円)になった。

コーヒー栽培をするようになって生活は変わったかとの問いに、「最近は物価が上昇して生活は厳しい」と言いながらも、「現金収入がほとんどなかった昔と比べれば、コーヒーを栽培するようになってからは安定した生活ができるようになった」と答えてくれた。

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[写真中央がタンディさん。写真左が仲買人のユスフさん。1升1升、コーヒー豆が計量されていく]

“仲買人”の役割

仲買人はどのくらい儲けているのだろう。“仲買人”という言葉の響きには、あまり良いイメージはない。どうしても“搾取”とう言葉をあわせて連想してしまう。

現地を案内してくれたキーコーヒーの人には悪いと思いながらも、何気なく仲買人に聞いてみることに。

ユスフ・レンバさん(45歳)。先ほどタンディさんから豆を買い取っていた仲買人だ。ランテパオから来ているというユスフさんは、仲買人の仕事を始めて4年。1日に150~300キロのコーヒー豆を買い付けているという。市場での買い取り価格やランテパオでの買い取り価格を、巧みな話術(?)で聞き出す。すると、1キロあたり100~200ルピア(約1.2~2.4円)が利益になる計算だ。これは想像していたよりもずいぶんと低い。300キロを運んで、最大キロあたり200ルピアの利益があったとしても、せいぜい6万ルピア(約706円)程度の稼ぎにしかならない。栽培農家の人がいる前で買い取り価格を聞いているので、これは信頼していい数字だろう。また、ランテパオでの買い取り価格についても、トアルコジャヤ社の人に同じ質問をして同様の回答を得ていることから間違いない。それにしても仲買人の利益が低い。

他の仲買人に話を聞く中で、その計量の仕方に秘密があることが分かった。トラジャでは、伝統的に秤が必要となる「キロ」よりも、より安価な計量升を使った「リットル」という単位で取り引きされることが多い。すり切り一杯を1リットルとして、それをキロに換算したのが買い取り価格。これに対して、栽培農家から豆を買い取るときには、山盛り一杯で1リットル。この山盛り分が仲買人の利益になっていた。

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[これが山盛り1杯。大胆に盛られるが、これがここの習慣だ]

それでも先ほどの利益にプラス20%程度。ガソリンが1リットル6,000ルピア(約71円)することを考えたら、決して割りのいい仕事ではない。また、欠点豆が混入しているリスクも仲買人が負うことになる。こうしたことを考えると、仲買人というよりもむしろ運送屋に近い。

トアルコジャヤ社の集買所がこの地域に4カ所しかないなかで、そこにアクセスできない栽培農家にとっては、各市場にいる仲買人は販路としてなくてはならない存在だ。また、トアルコジャヤ社にとっても、集買対象地域すべての村に集買所を設置することは、コスト面からみても現実的ではないだろう。

仲買人は、「標高の高いところほど品質の良いコーヒー豆が栽培できるが、標高が高いところほどアクセスが困難になる」というジレンマを解消するだけでなく、「より多くの住民がトラジャコーヒーの恩恵を受ける」ことにも一役買っていた。

プルプル村を目指すも

サパンの市場を後に、一路、プルプル村を目指す。プルプル村の標高は約1,800メートル。集買事業対象地域の中でも、もっとも険しいところにある村だ。サパンまでは、かなりのでこぼこ道ではあったものの、一応は舗装された道であった。ここからは未舗装道。サパンから離れるにつれ、とんでもない悪路に。車の天井に頭をぶつけながら進む。

プルプル村まで残り数キロの地点で、同行してくれたキーコーヒーの吉橋氏の判断により、これ以上、先に進むことを断念。ちょうどそこは、ウマの集買所があるところだ。

「昔はよく車が動かなくなり、帰れなくなることがあった」と笑いながら話す吉橋氏。

プルプル村でコーヒーが栽培されている様子を見るのを楽しみにしていたこともあり、残念な気持ちもあったが、これ以上、先に進めるとは到底思えない。こんなところにまでトアルコジャヤ社が集買に来ているかと思うと、頭が下がる思いだ。

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[ここ数日降った雨で、道路はすっかりぬかるんでいた。まだ乾季のはずなのだが…]

品質管理の要 ランテパオ集買所

ウマの集買所でお昼を食べ、ランテパオへ引き返す。目指すランテパオの集買所は、すべての集買所で集められたコーヒー豆が運び込まれる基地であり、またトアルコジャヤ社の住民栽培コーヒー事業とパダマラン農場開発事業を統括する事務所が置かれているところでもある。

ランテパオの集買所の主な役割は、集買されるコーヒー豆の品質管理だ。60キロの麻袋ごとにサンプルを取り出し、豆の大きさや割れ豆やカビ豆などが混入していないかをチェックする。さらにそれを脱殻したものを実際に焙煎し、“カップテスト”と呼ばれる味覚評価が行われる。こうした検査をすべてクリアした豆だけが、パダマラン農場内にある精選加工工場へと運ばれる。

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[スワルディ氏(46歳)は、カップテストを始めて10年以上になる。品質に対するこだわりは人一倍]

現在、このランテパオ事務所に勤務するキーコーヒーの佐々木徹氏によれば、集買されるコーヒー豆の品質を高める取り組みとして、93年から仲買人や栽培農家の登録制度を導入しているという。この登録制度により、誰が、いつ、どこから、どのような豆を持ち込んだのかを追跡できるようになった。また仲買人が栽培農家から豆を買い取るときにも、きちんと記録することが義務付けられているため、欠点豆や不正があったときには、生産者まで遡れる仕組みになっている。当然、豆を持ち込む人は、自分で持ち込む豆に責任を持つようになる。また、生産農家も欠点豆を売るなど、仲買人からの信用を失うようなことはできない。

栽培農家を対象とした講習会や苗の無償配布が技術の向上を目指したものなら、この登録制度は、“意識の向上”を目指した取り組みだといえる。

現在、登録者数は栽培農家が約450人、仲買人が約200人。登録するためには、KTP(住民カード)などで身分が証明できること、村長からの推薦状があることが条件となっている。もちろん登録料などはかからない。

「大口の仲買人だけに限定してしまうと販路が少なくなり、栽培農家が買い叩かれてしまう。住民コーヒー栽培事業は、生産意欲の向上と生活の安定の上に成り立つものだ」との佐々木氏の話に、なるほど、先ほど見てきたサパンの市場には、多くの仲買人がいたことを思い出した。

新たな目標に向け動き出したパダマラン農場

トラジャ視察の最終日、パダマラン農場を見に行く。出発は早朝の5時30分、今日もあいにくの小雨模様だ。

宿泊先のランテパオから車で約1時間弱、幹線道路から左に折れ、農場までのアクセス道に入る。これが、開墾当時にトアルコジャヤ社が切り開いた道だ。県の公道となった今でも、初代パダマラン農場長だった清野剛氏の名前にちなみ、「ジャラン・セノー」(清野道路)と呼ばれ、農場で働く人はもちろん、周辺住民の生活道として多くの人に利用されている。まだ朝の6時30分というのに、すでに農場に向かう人たちの姿が見られた。

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[早朝のパダマラン農場からの眺望]

農場の門をくぐり、すぐ左側にある事務所でパダマラン農場の現況を聞く。

パダマラン農場の敷地面積は530ヘクタールで、これは東京ドーム約113個分に相当する。そのうち約325ヘクタールに約35万本のコーヒー木が育てられ、年間収穫量はグリーンビーンズにして約120トン。資料を見ると、80年代後半には420ヘクタールあまりに約90万本のコーヒーの木が植えられていたことが記録されており、比較するとずいぶん規模が縮小したことがわかる。ただ、90年代からトアルコジャヤ社としてのコーヒー豆の輸出量は年間500~600トンと安定して推移しており、この分、集買事業が拡大したことが推測できる。

事実、今年日本で発売された「新生トアルコ トラジャ」のストレート品には、すべてパダマラン農場よりもさらに標高が高い集買対象地域で栽培されたコーヒー豆が使われている。

パダマラン農園は、「トラジャコーヒーの生産農場」という役割を果たし、どのように変貌を遂げようとしているだろうか。

自然との共生

作付面積が縮小された農場では、その土地を“自然林に返す”という取り組みが行われていた。開発当時は、収穫量を上げるため傾斜のきついところや土壌がコーヒー栽培には適さないところにまで苗木が植えられていた。

当然、そうしたところにコーヒーを植えても収穫量は増えない。自然保護の観点から、こうした場所にはもともとこの土地にあった木を植え戻している。

また、直射日光からコーヒーの木を守るシェードツリーと呼ばれる日陰樹も、これまでは栽培効率を優先させ成長が早い種類の木が植えられていたが、周辺環境との調和を考え、在来種に変えている。さらにパダマラン農場では、有機農法によるコーヒー栽培にも挑戦している。現在農場にある35万本のコーヒーのうち、すでに約1万本を有機農法に切り替えた。

「標高1,000メートルクラスの有機栽培コーヒーは世界的にも珍しい」と佐々木氏は話す。また、残りの34万本についても、必要最低限の農薬しか使わない“減農薬”に努めている。

こうした自然林に戻す取り組みやコーヒーの有機栽培を進めていくために、農場ではドリアンやナンカ、バカといった在来種の苗木を育てているほか、精選加工の工程で出るコーヒーチェリーやパーチメントのカスを利用した有機肥料づくりも行っている。

こうした取り組みが高く評価され、07年12月、パダマラン農場は日本のコーヒーメーカーの直営農場として初めて「Good Inside」を取得した。これは、環境や地域社会、生産管理などに配慮したサスティナブル(持続可能)な農場だけに与えられる認証だ。

パダマラン農場は、これまでのコーヒー豆の生産や栽培・精選加工技術の普及といった目的に加え、「自然との共生」をテーマとした、新たなコーヒー農場へと変貌を遂げつつあった。

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[赤く熟したコーヒーチェリーのみを摘み取る。一番多い人で、1日60キロを収穫、日当4万ルピアになる]

トラジヤ事業がこの地に与えたインパクト

今回の現地取材では、キーコーヒーがこれまで長い年月をかけこの地で行ってきた取り組みを駆け足でまわった。特に産業がなかったトラジャ県で、パダマラン農場や集買所などは、現地の雇用に貢献してきたことはインタビューからも明らかだ。だた、それは直接的に裨益した人であり、特筆すべきは、この地に高いコーヒー栽培技術を根付かせ、トラジャコーヒーを世界的に有名なブランドとして確立させたことだろう。また95年に焙煎事業の許可を得て、インドネシア国内向け商品の販売を開始したことにも触れておきたい。こうした事業展開も加わったことで、集買対象地域に住む約7,000世帯の栽培農家を始め、トラジャコーヒーに直接・間接的に関わる多くの人々がトラジャ事業の恩恵を受けている。

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[パダマラン農場長のユスフ氏(左)は、「30年前は腕時計やラジオを持っているのがお金持ちの象徴だった。今では子どもでも腕時計をしているし、多くの人がラジオではなくテレビを持つようになった」と話す。マリアさん(中)は、22年前からこの農場で働いている。「ここでの稼ぎで3人の子どもたちを学校に行かせることができた」と笑顔で話してくれた。マキウスさん(右)は、トアルコジャヤ社の集買部門で働く運転手だ。「ここで働くようになってから収入が安定し安心して暮らせるようになった」という]

キーコーヒーが10年前にまとめた「トラジャ事業史」に、こんな数字が残っている。91年度の南スラウェシ州の予算規模は1,171億ルピア。同じ時期、トアルコジャヤ社がトラジャ県内に落とした金額は、労務費や集買金額として計250億ルピア。これはスラウェシ州予算の21%に達する。

また、トラジャ事業がこの地のコーヒー生産に与えたインパクトを知る上で、アラビカ種とロブスタ種の輸出量を見るのも面白い。

当時トンドリタにあった集買所・精選加工工場で、苗木の無償供与が開始されたのが79年。その年にマカッサル港から輸出されたコーヒー豆は、ロブスタ種が5,073トンに対してアラビカ種はわずか206トンだ。それが95年には、ロブスタ種が616トンにまで減少したのに対して、アラビカ種が初めてそれを上回る1,841トンにまで拡大。以降は、ロブスタ種はアラビカ種に輸出量で大きく水を開けられている。

もちろんトラジャコーヒーはアラビカ種だ。このアラビカ種はロブスタ種に比べ高値で取引されるが、病虫害に弱いことから栽培が難しく、トラジャ事業が始まるまでは敬遠されてきたという背景がある。この地にアラビカ種を広めたのはまさしくキーコーヒーであり、こうした視点からもトラジャ事業がこの地に与えた影響の大きさを窺い知ることができる。

35年という歳月をかけ、日本の一企業としては類を見ない地域一体型事業として成功を収めたキーコーヒーのトラジャ事業。ここから何を学び、どうフィードバックしていくのか。この事業は、開発援助に携わる者に多くの示唆を与えてくれる。

(本誌編集部 真田陽一郎)

『国際開発ジャーナル』2008年9月号掲載記事

2008.07.10

【現地レポート】バングラデシュ・カフコ肥料工場に学ぶ [2008.7.10]

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官民連携には多様なスキームが必要

今年3月、バングラデシュを訪れる機会があった。現地では多くのODA案件を訪問したが、なかでも強く印象に残っているのが「カフコ肥料工場」だ。紆余曲折あったものの、現在では同国を代表する輸出系企業にまで成長したカフコ。この工場は、1990年代に「カフコ肥料生産事業」として日本の民間企業と旧海外経済協力基金(OECF)が出資、また旧輸出入銀行が融資を行った“官民連携プロジェクト”である。現地と国内で行った関係者らに対する取材や資料をもとに、その成功の秘密に迫ってみたい。

カフコがもたらす経済インパクト

 バングラデシュ経済は近年、堅調な伸びを示している。GDP(国内総生産)成長率は2003年から5年間、平均で6%を超え、外貨準備高も同期間で約25億ドルから52億ドルまで増加した。その結果、貧困層も着実に減少、同国統計局によれば、01年には初めて貧困率が50%を下回っている。
 
 10数年前、この地で活動していた協力隊の友人から聞かされていた、「ダッカの目抜き通りを牛やニワトリが歩いている」というイメージからは、遠くかけ離れた現在の姿を目の当たりにしたのは今年3月。市街地での建設ラッシュと車の混雑ぶりに、バングラデシュの発展を肌で感じることができた。

 この発展著しいバングラデシュにあって、それに少なからず貢献しているのが「カフコ肥料工場(KAFCO)」だ。第二の都市チッタゴンにある工場では、バングラデシュ唯一の天然資源であるガスを原料に、肥料となるアンモニア(約50万トン/年)と尿素(約65万トン/年)を生産している。従業員こそ約650名と規模は小さいが、所得税、株式配当、天然ガス購入など、07年にカフコがバングラデシュにもたらした経済効果は、実に1億5,000万ドル以上にも達し、さらに今年はそれを大きく上回ることが予想されている。

 外貨準備高が約50億ドルあまりの国で、この数字が経済に与えるインパクトの大きさは想像に難くない。さらに、国内で自国資源を原料とした肥料が生産できることは、農業国であるバングラデシュにとり、これもまた大きなメリットだ。さらにカフコの経済インパクトの大きさを示す逸話がある。

 昨年バングラデシュ政府は、輸出系企業からの税収を上げようと税制改革に乗り出した。これは輸出売上高に対して、一律0.25%を直接課税しようというものだった。しかし、ある日突然この改革案が取り下げられた。その理由は簡単だ。バングラデシュの輸出総額が年100億ドルといわれているなかで、カフコが納めている所得税だけで約2,200万ドルあった。この改革案では、トータルで考えると、増収どころか逆に税収が減ってしまうためだ。

公的資金が果たした役割

 カフコの総所要資金、5億数千万ドルに占める出資と融資の割合は、約25対75。うち出資は、バングラデシュ政府が約40%、カフコジャパン(丸紅、千代田化工建設、海外経済協力基金)が約30%。そのほか、デンマーク開発途上国工業化基金(IFU)、Topsoe社(デンマーク)、Stamicarbon社(オランダ)、英国連邦開発公社(CDC)などが参加している。また融資部分については、日本輸出入銀行から約50%、残りをイギリス、イタリア、ルーマニアのほか、市中金融から調達している。日本の政府資金としては、「出資」部分でOECFの海外投融資(ODA)が、「融資」部分で日本輸出入銀行の出融資スキーム(OOF)が活用された。

 この出資と融資、ODAとOOFには、それぞれ意味や目的、条件などに大きな違いがある。「出資」は出資金額に相当するリスクを負って事業に直接・間接的に関わることを意味する。他方「融資」は、融資額に相当する担保を確保し、金利を含む債権が返済されることを前提としたものだ。また、ODAの一環である海外投融資は、「事業達成の見込み」が出融資条件であるのに対し、OOFの出融資スキームは、「償還・配当の確実性」が求められる。

 開発途上国での事業は、往々にして高いリスクが伴い、事業資金の調達は容易なことではない。これはバングラデシュ初の大型外資導入プロジェクトとなったカフコも同様だ。そうしたなか、それぞれの条件をクリアし、日本から2つの公的資金を取り付けたことは、この事業にとり大きな後ろ盾となった。もちろん日本のほか、イギリスやデンマークなどの政府資金も入っている。それでも出資・融資規模からみれば、日本の公的資金が果たした役割は大きい。日本が参加したからこそ事業に対する信頼性が高まり、市中金融から融資の約25%を調達することができた。

長らく続いた経営難

 所要事業資金が出揃い、1994年11月に肥料の製造プラントが完成、翌12月には生産が開始された。しかし、事業開始当初から利益が上がったわけではない。カフコの事業が軌道に乗り、飛躍的に利益を伸ばし始めたのはここ3年ほどだ。それ以前の10年間は、経営が苦しい状況が続いた。01年には、財務リストラを行うなど、危機的な状況も経験している。

 これにはいくつかの原因があった。まず肥料の市場価格が安かったことが挙げられる。これはウクライナなど、旧ソ連圏の国がルーブルで原料となる天然ガスを安く輸入、外貨獲得のために相場よりも安い価格で輸出したためだ。もちろんこの影響を受けたのはカフコだけではない。世界中の肥料生産国や企業にも影響が及んでいる。日本やアメリカなど、先進国のなかでは生産中止に追い込まれるところもでたのがこの時期だ。しかしこの問題は、ロシアが天然ガス輸出をドル建てに変更したことで01年夏ごろから徐々に回復。それが最近では、天然資源の高騰につられ肥料の価格も上昇、カフコにとって追い風が吹いている状況だ。

 また、こうした国際情勢というよりも、途上国特有のカントリーリスクによる危機も幾度となく味わっている。

 91年には、バングラデシュで政権が交代、「前政権が決めたことは疑わしい」という理由から、プロジェクトそのものが頓挫しかけた。また、天然ガスを採掘するインフラの老朽化などが原因で、政府から原料となる天然ガスが十分に供給されない状況に見舞われたこともあった。当然、原料が供給されなければ、計画生産量を達成することは難しい。この状況を打開したのは、まさしく官民が連携した取り組みだ。

 当時この国に赴任した大使が、ずいぶんとバングラデシュ政府要人らに事業の正当性や有益性を説いて回った様子が伺える資料が残っている。そこには、最終的にこの事業に対する了承を得たのは、深夜に行われたバングラデシュ国首相との“サシ”での会談だったことが記されている。もちろんこれは一例に過ぎず、その過程では日本政府関係者や民間の人々の多大な努力があったと聞く。また、先の老朽化したガス施設には、94年に供給能力の増強を目的とした円借款が供与され、その後、ガスの安定供給に大きく貢献している。

カフコの経験をアフリカへ

 カフコが今日の成功を手にした要因とは何だったのか。関係者らの話のなかで見えてきたことが2つある。

 1つは、官民連携を図るスキームが多様に存在し、それが互いに補完しあったことである。民間事業であるカフコには、ODAベースの海外投融資とOOFの出融資スキームが活用され、天然ガスの安定供給には円借款が大きな役割を果たしたことはすでに記したとおりである。とりわけ、海外投融資を受けた日系企業がカフコに出資参加したことの意味は大きい。日本の企業が現地でオペレーションに関与しているからこそ、マネジメントを含む日本の技術導入が進んだ。事実カフコは、バングラデシュ国内にあるどの肥料工場よりも大きな成果を収め、英国安全評議会からは、「健康と安全管理システム監査」で五つ星の認定を受けている。

 もう1つは、事業の立ち上げだけでなく、事業実施途中も継続的に日本政府から有形・無形の支援があったことだ。日本政府からの働き掛けは、民間ベースの交渉が難航した際には、状況を打開する起爆剤となった。「政府の後ろ盾がなければ今日の成功はなかった」という声は、関係者らに共通している。またガス採掘関連施設への円借款供与も、継続的な官民連携の一例だ。

 現在、投融資協力は世界の援助潮流となりつつある。これは本誌5月号、「森羅万象」でも詳説されている。先般開催されたTICADⅣで日本政府も、「アフリカ投資倍増支援基金」の創設を打ち出した。これは、日本からの直接投資が“アジアの奇跡”の原動力となったことが認知され、また、それを望むアフリカ諸国の声に応えたものだ。

 しかし、カントリーリスクが高いことが容易に想像できる地域では、この「償還・配当の確実性」が求められるスキームだけでは十分ではない。比較的短期間でコスト回収が見込める資源開発のみが想定の範囲であれば別だが、アフリカ諸国の持続的な発展を考えれば、製造業への直接投資は重要だ。
 
 日本は、より条件が緩やかな開発協力としての投融資スキームを、技協、有償、無償に次ぐ“第四のスキーム”として、いま一度、官民連携メニューに加えていくことが必要だろう。

(本誌編集部 真田陽一郎)

『国際開発ジャーナル』2008年7月号掲載記事

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