歴史は皮肉なもの 対中経済協力と戦後賠償の請求権放棄

「一つの中国」という大原則
7月14日午後、公益財団法人サントリー文化財団の特別研究助成による研究プロジェクト「戦後アジアの政治・経済秩序研究会」(代表:北岡伸一・東大教授)にオブザーバー資格で出席しました。
テーマは「日台関係における日華関係議員懇談会の役割」という、私にとって興味深い話でした。なかでも、私は蒋介石総統による対日賠償請求権の放棄について裏事情を知りたかった。なぜかというと、蒋介石総統と1950年に日本と結んだ「日華平和条約」で対日賠償請求権を放棄したために、1975年の北京政府との「日中平和条約」締結に際し、毛沢東主席も「一つの中国」という大原則を理由に対日賠償請求権を放棄したからです。

「開かれた中国」
文化大革命で疲弊していた中国にとって、賠償金をもらえるならばもらいたかったに違いない。しかし、「一つの中国」という大原則は曲げられない。ただ、田中首相は賠償に配慮しながら、それを1979年の対中経済協力で実現しようということで、1980年から北京オリンピックの2008年までに総計2兆7,000億円に及ぶ円借款を中心とした対中経済協力が実現しました。これら円借款は「開かれた中国」、改革・開放の経済自由化路線のインフラ整備に役立ち、中国経済の今日を築いたといっても過言ではないと思います。

秦皇島
私は1980年、対日経済協力の第1号ともいうべき歴史的な円借款プロジェクト(北京―秦皇島間鉄道電化複々線化計画)と大同石炭を積み出す渤海湾に面した秦皇島港湾近代化計画を取材しました。その時、大来外務大臣の紹介を通して北京人民大会堂で谷朴副首相をインタビューしましたが、記者冥利につきる想い出として今も大切にしています。
歴史は皮肉なものですね。「一つの中国」という大原則が、対日賠償請求権を放棄させ、ある意味で賠償以上の円借款協力を得たことです。

台湾も準備した対日賠償請求
さて、台湾政府の対日賠償請求権の放棄について、この日の報告者の松田康博氏(東大東洋文化研究所准教授)によると、実は台湾政府は事務レベルで着々と対日賠償の準備をしていたが、日本の植民地時代を通じての台湾資産も厖大なものとなるので、ここはむしろチャラにして、放棄し、これからの日本政府の外交的支援を得たほうが得策だということになって、対日賠償請求権の放棄を決めたようです。それに応じるように、日本では自民党を中心とする「日華関係議員懇談会」が蒋介石総統の恩義に報いるということで日台関係のパイプ役を果たしてきたのでしょう。 

(2010年8月2日)