なぜODAは票田にならないのか 人びとの求めるODAへのリアリティーとは

ODAは票田にならない?
皆さん、こんにちは。久しぶりのブログです。忙しいというと言い訳になります。書く時間は自分でつくるものですが、事情のわからない他人は容赦なく私の時間を奪います。
さて、今回の参議院選挙で民主党が大敗しましたが、長崎選挙区では国際協力に関心を抱き始めた民主党の大塚氏が落選しました。その原因は自民党の大攻勢にあったようですが、今でも彼の口癖のような呟(つぶや)きを忘れることができません。それは「長崎の離島に行って、海外援助(ODA)を口にすると、援助ならわれわれがもらいたい」というんで、ODAは票にならないのです、という現実です。こうした呟きは自民党の議員からも聞こえてくる。だから、海外援助に共鳴する国会議員たちは、そうした議員が落選するたびに、海外援助から遠ざかっていくのです。それは国会におけるODA支持者の脱落を意味します。

ODAへの人びとの拒否反応
 なぜ、人びと(国民)は海外援助(ODA)に拒否反応を示すのでしょうか。皆さんはどう思いますか。(1)国の借金が巨大化し、第2のギリシャになるという時に他国を援助する余裕はない、(2)消費税10%という増税が目の前にあって、他国を援助する立場にない、(3)ODAは贈与するだけで日本への経済的リターンがないから、(4)半世紀に及ぶODAの総括がないから。いったい日本にどのくらい役立っているのかわからない、(5)ODAを執行する外務省など行政を信用していないから。このなかには事業仕分けで露呈されたJICAへの不信も含まれていよう、(6)そもそも自ら立ち上がらない国をいくら援助しても生かされないから。自助努力の精神がない、(7)国家間の援助は腐敗した上層部の特権階級の餌食になっているから…等々の理由があげられます。皆さんはどれが自分の言い訳だと思いますか。

ODAはチャリティーではない
 私はこう思うんです。ODA(政府開発援助)はその名の通り、そもそも政府が行う国家間外交の一環であって、チャリティーではないということです。日本政府はこれまで往々にして、ODAを増大させるには国民の合意が必要だという観点から、ODAの必要性をやや美化して、人道的な側面を強調してきた気配があります。それを聞かされた人びとは、ODAをNGO、NPOのチャリティーと同じではないかと思うようになったのではないでしょうか。
 何が問題かといえば、それは政府に国家戦略ともいえる、日本のサバイバルをかけた国家政策が存在せず、ただ相手の要請で税金、日本の資金を放出してきたことへの不満、怒りだといえないことはない。日本の国家戦略に役立つものであれば、それは必要な政策経費です。政府の「ODA大綱」には、それらしき趣旨は盛り込まれているものの、それが、現実のアジア政策、中東政策、アフリカ政策に反映されていない。もっとも、ASEAN+3(日中韓)といいながら、それにODAがどう絡み合うのかも見えてこない。FTA、EPAとの関わり方も不透明。

成長戦略にベクトルを合わすODA
 たとえば、民主党側から「成長戦略にODAもベクトルを合わせてほしい」といわれても、「国益にODAは絡むべきではない」との反応がODAを主張する側、またはNGO側から聞こえてくる。ODAも日本の成長戦略に、それなりにベクトルを合わせて協力してほしい。これが一般国民の自然体の声ではないでしょうか。
 わたしは経済活動だけを特別扱いしているわけではない。医療協力にしろ、農業協力にしろ、日本の医療、日本の農業の発展にも寄与できる部分を意識して、政策立案すべきだといいたいのです。ODAの原資は国の税金です。国民が豊かで、国が繁栄しないと、応分の国際協力もできません。そうした局面が見えてこないODAに国民は嫌気を抱いているのではないでしょうか。
 すでに欧米では、税金だけで貧しい国々、人びとを助けられないということで、官民連携、PPP(官民協調)の思想をもって、企業、NGO、財団等々との資金をも総動員させて、新しい援助方式を編み出しています。ODA主役の時代は終わったのです。ODAは民間をバックアップする脇役に徹して、コーディネートしなければなりません。ODAが新しい時代に入っていることにODA関係者は覚醒すべきでしょう。