Vol.2 インドネシアで水球を指導

2000~2003年、国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊員として
インドネシアに派遣された松島泰樹さんのレポートです。

―なぜ協力隊に参加したのか―

青年海外協力隊に参加する動機は人それぞれである。
「途上国の人々の役に立ちたい」と正義感や希望に燃えて参加する人、
「己を磨きたい」という人、「なんとなく、海外に行って自分を変えたい、自分探しをしたい」という人・・様々である。
私の場合、それらのどれにも当てはまらなかった。
私は中学、高校、大学の10 年間、水球の部活漬けの日々を送ってきた。
大学3年の秋、周りが就職活動を開始した頃、ふと考えた。
「俺はこれまでの人生で水球しかやってきていない。このまま就職しても、
狭い世界しか知らないスポーツ馬鹿(言葉は悪いが)としか見られないのではないか」と。
つまり「まだ就職したくない」という気持ちが私を協力隊に参加させたのであった。
そこで、若気の至りの典型的パターンで(笑)、「海外に行って何かしたい」と考え、情報収集しているうちに、
協力隊のパンフレットに「職種:水球、派遣国:インドネシア」という案件を見つけ、
「これなら、俺の唯一のスキルである水球を生かして海外で経験が積める。これしかない」と受験し合格。
平成12年度1次隊としてインドネシアに派遣されることとなった。

―赴任―

福島県二本松市で語学を中心とした2ヵ月半の訓練を受け、2000年7月にインドネシアに上陸。
最初の1カ月は古都ジョグジャカルタでホームステイしながらの語学研修を経て、スマトラ島パダン市に赴任した。
赴任当時、パダンの水球チームは既に解散状態だった。
そのため、まずは選手集めからのスタート。
インドネシアでは日本のように各学校にプールがある訳ではなく、パダン市内の主な中学、高校の水泳の授業は「テタライプール」という市営のプールで一括して行われていた。
そこに目を付け、プールで授業を行っている各学校の教員を集め、「今度、水球チームを作りたいんだが、子どもたちに水球をやらせてみないか?」と持ちかけたところ、
こんな田舎町に日本人が来た・・・という物珍しさも手伝ってか、練習初日にはなんと50人もの中・高校生が集まった。
大半の子どもたちは水球はおろか、泳げない子どもたちばかりだったので、まずはバタ足から指導していった。
しかし、元々のんびりとした(いい加減ともいう)国民性である。日本人の私が課す練習がきつかったのかどうかは知らないが、
日一日と子どもたちは減っていき、1週間過ぎる頃には、3人しか残っていなかった。こうなると、「去る者追わず、来る者拒まず」である。
選手を集めては数人残り、また選手を集め・・・・これを何度か繰り返すうちに、 15人前後の選手が集まり、なんとか水球チームとしてスタートを切ることが出来た。

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指導中の風景

―ホームステイ―

私が3年間、充実した協力隊生活を送ることが出来たのは、ひとえにステイ先に恵まれたという事を抜きには語れない。
ステイ先の主人、Edwar 氏は、水球練習会場テラタイプールの所長であり、水球チームの練習場所の確保、遠征における費用集め(後述)など、
公私共に本当にお世話になった人物である。
また、3食美味しい食事を提供してくれた奥様のLolaさん、ある意味、私のインドネシア語の師匠であったBoboy君やDaraちゃん・・・
本当に毎日が楽しく、温かみのある日々だった。今でも時々あの頃の生活に戻りたい・・・とノスタルジーに浸る時がある。
今思うと、こうして彼らと同じ食べ物を食し、気の置けない付き合いをインドネシア赴任当初からすることが出来た私は幸せだったのかもしれない。
今でも、時々電話で連絡を取り合うEdwar 氏の家族とは、滅多に会うことはないが、第二の家族としてこれからも友情は続いていくだろう。

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ステイ先の子供たちと

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ジャカルタに向かう船の上で

-我慢の日々-

さて、話を戻そう。ようやく人数も集まり、チームとしての様相を呈してきたとはいえ、異文化にて水球を指導する際の困難は常に付きまとった。
一般的に、東南アジアの人々はのんびりしているとよく言われる。しかし、悪く言えば、万事において「いい加減」で、インドネシアも例外ではない。
指導を始めた当初、選手らは無断欠席、遅刻は当たり前。ゴミはどこにでも捨てる、プールサイドで平気で唾は吐く・・・。およそ「規律」からは程遠い状態であった。
もし、日本であれば、当然指導者として選手に厳しく注意、叱責し、規律を保たねばならない。しかし、私はあえてそうはしなかった。その代わりに、例えば選手らがプールサイドにゴミを捨てたら、彼らの目の前でそれを拾い、ゴミ箱に捨て、「この国の習慣でゴミを適当に捨てても咎められないのは、知っている。だが、遠く日本から来た外国人に“インドネシアと云う国はこういう国なのか、教育が足りないな”と思われて、恥ずかしくないのか?お前らのその行動が、祖国の名前を名誉を傷付けているんだぞ。俺は、強制はしない。自分らで良く考えろ。」と諭し、プライドを刺激し、奮起させる方法を採っていた。そのような方法を採ることにより、彼らは自分で考え、次からはゴミを捨てなくなる。しかし、何日かすると、また忘れて同じことを繰り返すことが多いので、その都度根気よく諭し続けた。
言葉、文化、習慣が違う中での指導で、頭にくることも多々あったが、常に「我慢」し、一歩譲った立場から、「何が、何故いけないのか」ということを諭し続け、考えさせることを心がけた。なぜなら、ここは日本ではなく、インドネシアなのだ。彼らにとって、生まれた時から、その状態が当たり前なのであり、もう何百年もその方法でやってきているのである。それに対し、「よそ者」が強く非難、叱責したところで、反発されるに決まっている。我々だって、いきなり来た外国人に「だから日本人は駄目なんだ!」と言われたら頭にくる。それと同じである。許容範囲を超えそうな時も、我慢し歩み寄る努力をせねばならないのである。しかし、ただ相手にいい顔をするだけでは、単なる「迎合」である。相手を尊重しつつも、こちらの考えもきちんと示さねばならない。――――そのバランス取りに苦労し続けた。

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試合中、神に祈りを捧げる選手たち

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水質のあまり良くないプールにて

-順風-

そうやって指導を続けている内に1年近くが経ち、初めて全国大会に参加する機会を得た。
しかし、まだ立ち上げたばかりの水球競技である。地元水泳連盟の腰は重く、
また、水球のための強化費を水泳連盟上層部の役員が着服するなどして(インドネシアでの汚職は日常茶飯事)、一向に遠征費用を出してくれない。
そのため、連盟はあてにせず、練習の合間を縫って、協力者たちとともに、地元の有力企業を中心にスポンサー探しに奔走した。
インドネシア語で遠征計画書、費用支援要請書、予算案を作成し、スポーツ振興に理解、実績のある企業を中心にお願いして回った。
大体の場合、日本人という事で、すぐに各企業の上層部の方々に話を直接聞いて頂き、
「わざわざ日本人がインドネシア語を学び、地元のスポーツ振興に頑張ってくれている。よし、一つ協力してやろう」と、
数社から資金支援の承諾を取り付け、遠征費用も目処がついた。

――この件だけでなく、様々な交渉時にインドネシア語が喋れるということで、交渉が円滑に進むことは多かった。言葉が出来るということは、何よりのアドヴァンテージであったには違いない。しかし、今思うと、それよりも彼らと同じ食事を手掴みで一緒に食べたり、インドネシア語のジョークを覚えて笑わせたり、断食に一緒に参加するなど、インドネシアの文化に適応しようという姿勢が、彼らに好感を抱かせたのではないかと思う。郷に入りては郷に従えではないが、異国で生活する際、その国の文化、習慣に適応しようと努力する外国人に対して、心を開いてくれるものだと、事あるごとにしみじみ感じた。

なんとか資金の目途もつき、大会に参加。そして、水球を始めて1年経たない選手らが、あれよあれよと勝ち抜き、なんと、いきなり全国大会で準優勝してしまった。その結果、その後は比較的容易に資金の調達が可能になり、大会にも頻繁に参加し、強化は順調に進んでいった。それに伴い、選手らの規律も向上し、確かな手ごたえを感じつつ、また1年近くが過ぎた。・・・しかし!

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試合後、選手らと

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屋台にて手掴みで食事中

-再出発-

強化が順調に進む中、協力隊活動も2年以上が過ぎた頃、大きな問題が待ち受けていた。
「選手らの進学問題」である。
指導してきた選手らの大半が高校3年生であり、卒業後の進路を考えなければならない時期が迫っていた。
15人の選手のうち、パダンでの大学進学志望者は僅かに2名。残りは就職するか、故郷に帰って家業を手伝うという。
このままではチームは崩壊である。
そこで、選手らを大学に進学するよう説得し(彼らの故郷までバスで12時間かけて赴き、両親らを説得したことも!)、
最終的に7人の選手がパダンでの大学進学に同意した。
その日から、選手らを受け入れてくれる大学探し、選手らの入学資金調達(裕福でない子が多い)のため、スポンサー探しの日々が続いた。
相談を持ちかけた何校かのうち、一番手ごたえを感じた、パダン国立大学と交渉を続けたが、インドネシア独特のゆったりとしたリズムで中々話がまとまらない。
このままでは埒が明かないと、ある日、大学学長に直談判したところ、
「インドネシア語を喋る日本人は初めて見た。いいよ」の一言であっさりと受け入れが決まり、いささか拍子抜けしたが、インドネシアの適当さに助けられた形となった。
なんとか金銭面での目途もつき、選手らの大学進学も決まり、既存の選手らを中心に、
半年前に立ち上げたばかりのジュニアチームの中学生等を練習に加え新チームで、再び練習を重ねていった。
当然練習のレベルも落ち、基礎から鍛え直す日々が続いた。そんな中、帰国を半年前に控えた頃、嬉しいニュースがチームに舞い込んできた。
キャプテンのEdi選手と、Daniel選手が、ベトナムで開催される東南アジア大会向けたインドネシア代表候補合宿に召集されたのである。
Ediは18 歳、Danielはまだ16歳である。2人とも、水球を始めてまだ2年ちょっとしか経っていない。これだけの若さで代表に選ばれることは、日本以上に年功序列が厳しいインドネシアでは滅多に無いことであり、帰国を前に自分のやってきたことが一つの形になって現れたと、素直に嬉しかった。

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世界最大の花ラフレシア

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島、ビーチが美しい

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バダン近くの湖

-伝えたかったこと-

その後、ナショナル合宿に2人を送り出し、残ったメンバーの底上げを図っているうちにまた数カ月が過ぎ、後任隊員のBさんがインドネシアに来た。
彼に引き継ぎをし、自身の身辺整理をしているうちに活動任期も終わりに近づき、3年間一緒にやってきたインドネシア人コーチPeris氏とBさんに全てを託し、帰国。
長いようで、あっと言う間に駆け抜けた3年間だった。

青年海外協力隊は、外務省傘下の組織、国際協力機構(JICA)によって、「途上国への人的援助、支援」を目的に途上国に派遣される。
しかし、先進国から途上国に対する一時的な援助、支援に終わってしまっては意味が無い。
途上国の「未来」を作るのは、あくまでその国の「人」であり、彼らが外国からの支援無しでもやっていけるようにすることが、本当の「国際協力」ではないだろうか。
そして、その「人」を形成する上でもっとも大切なのは、「教育」なのだ。
―――協力隊に参加当初はそんな考えなど持ち合わせていなかったが、日々水球を通じインドネシア人と関わり続け、そう考えるようになっていた私は、
「スポーツ(水球)が持つ協力的意味合い」を大切にして指導を行ってきた。
別に体育会礼賛主義ではないが、水球だけでなく、どのスポーツでも、それを通じて学んだことが、その後の人生における人格形成に、大きな影響を与えることは確かである。
私が水球を通じて学んだこと、「礼儀、規律を守ることの意義」「他人を思いやる心」「努力することの大切さ」などを、インドネシアの子供らに少しでも伝えたい、水球を通じて彼らが人間として成長し、それがインドネシアの未来につながれば・・・という願いを込め、ひたすら指導に明け暮れた3年間だった。
もちろん、私一人の力で全ての選手らに私の意図が全部伝わったとは思っていないし、指導した全ての選手らを変えることが出来たわけでもない。しかし、私という存在、水球を通じて、彼らが何かを考えるきっかけになったならば、それで良いのである。

3年間いろいろなことがあった。インドネシア代表チームのコーチをしたり、日本での審判のライセンスすら持っていないのに、国際試合の笛を吹いたりもした。デング熱、アメーバ赤痢等、メジャーどころの?病気にも罹った。様々な人々と出会い、異文化の中での指導で悩み、葛藤し続け、インドネシア人に失望させられることも多々あった。しかし、今振り返ってみると、嫌な思い出よりも、良い思いでのほうがはるかに多い。帰国後、既述のEdi選手がインドネシア代表入りし(Daniel選手は残念ながら落選)、ベトナムで開催された東南アジア大会に参加したという知らせがインドネシアから届いた時は、色々なことがあったけど、協力隊に参加して、本当に良かったと心から思った。
3年間、無事にやれたのも、現地のスタッフ、選手らに恵まれたおかげだと思う。協力隊は、「国際協力」というたいそうな名の下に途上国に派遣されるが、所詮は現地の人々の協力なくしては、何も出来やしないと感じた3年間でもあった。

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別れ際、空港にて